品川の大名屋敷 第2回

更新日:平成20年12月15日

仙台藩伊達家が大井村、現在の品川区東大井4丁目に「伊達藩品川下屋敷」を拝領したのは、2代藩主伊達忠宗 (だてただむね)のときで、万治 (まんじ)元年(1658)に、麻布の下屋敷を返上して拝領しました。

その広さは2万坪余りでした。

この年、忠宗が亡くなり、伊達綱宗 (つなむね)が3代藩主となりました。

ところが、万治3年(1660)7月、藩主綱宗は不行跡を幕府にとがめられ、藩主の座を2歳の息子 亀千代(後の伊達綱村)に譲り隠居させられ、品川下屋敷に閉じこめられるという処分を受けました。

綱宗は21歳のその年から72歳で亡くなるまで、品川下屋敷を一歩も出ることなく長い余生を送ることになったのです。

幼い亀千代が藩主になったことが、いわゆる伊達騒動の原因の一つになりました。

この御家騒動は三大御家騒動として脚色され、その後の定本となる「伽羅先代萩 (めいぼくせんだいはぎ)」など「伊達物 (だてもの)」と呼ばれる、多くの芝居や浄瑠璃を生み出したのです。

大井の地に隠居した綱宗は、書画工芸、茶道、能楽などの趣味の世界に生き、絵画「花鳥図屏風 (かちょうずびょうぶ)」や茶杓 (ちゃしゃく)など大変優れた作品が今も伝わっています。

ただし、その行状は隠居後もあまり芳しくなかったようです。

その後、5代藩主の伊達吉村のとき、大井村の下屋敷の一部約1万6千坪余りと、上大崎村に越前(福井)鯖江藩間部家 (さばえはんまなべけ)の所有していた下屋敷「大崎屋敷」との交換が行われました。

幕府から拝領した屋敷を交換することを「相対替 (あいたいがえ)」といいますが、このように屋敷地の一部を分筆して交換することを「切坪相対替 (きりつぼあいたえがえ)」といいます。

大井村の仙台藩伊達家下屋敷は、一部を間部家と交換した結果、三千坪余りの広さとなり、ここは物資の集積所として使われました。

仙台藩は江戸藩邸に常勤している3000名の食料をすべて仙台から運んでいましたが、この大井村の屋敷内に味噌醸造施設が造られると、原料の大豆はもちろん麹も仙台から運び、味噌造りをしました。

仙台味噌は伊達政宗が備蓄用として造らせたのが始まりと言われていますが、この天然醸造の辛口の赤味噌を、品川下屋敷で造り、江戸詰の藩士の食用だけでなく、江戸市中にも売りに出しました。

たちまち江戸っ子の評判となり、下屋敷は「仙台味噌屋敷」とも呼ばれるようになりました。

明治維新後は、八木家に委任され、明治35年(1902)「八木合名会社仙台味噌醸造所」となり、現在に至っています。

この地は、昭和61年11月から63年3月にかけて、都道の補助26号線の工事に伴う発掘調査が行われ、江戸時代の仙台藩伊達家下屋敷の遺構、味噌醸造跡、伊達家の家紋「竪三引両紋 (たてみつびきりょうもん)」の入った鐙瓦 (あぶみがわら)など近世から近代にかけての遺構、出土品が発掘されました。

次回は、品川の大名屋敷 第3回「伊達家大崎下屋敷」をお送りします。

 

品川大名屋敷2-1品川大名屋敷2-2

◆左から

・仙台味噌の陶製樽

・江戸時代の味噌醸造施設の遺構(仙台坂遺跡)

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