品川の大名屋敷 第3回
更新日:平成20年12月15日
仙台藩・伊達家が、現在の東五反田3丁目の清泉女子大学付近の約1万6千坪に及ぶ大崎屋敷を手にいれたのは、元文2年(1737)、5代藩主、伊達吉村のときでした。
伊達家は大井村下屋敷の一部を鯖江藩間部家 (さばえはんまなべけ)の大崎屋敷と交換したのですが、交換に当たっては、鉄砲組頭で目付などを歴任した旗本の佐々木五郎右衛門などに仲介を依頼し、交換実現後には、謝礼を支払っています。
ともに面積1万6千坪あまりで、似たような環境同士の屋敷地の交換でも、いろいろと工作をする必要があったのでしょう。
後、寛保3年(1743)、伊達吉村隠居の年には、大崎屋敷の続き地、約6千坪を得て2万2千坪を超える広さになりました。
大崎屋敷の北の境は、時の鐘で知られた寿昌寺 (じゅしょうじ)でした。
大崎屋敷を手に入れた伊達吉村は、延宝8年(1680)分家筋の宮床伊達家 (みやとこだてけ)、伊達宗房の長男に生まれ、元禄8年(1695)、15歳のとき仙台藩4代藩主伊達綱村の養子となり、元禄16年(1703)に養父綱村の隠居にともなって家督を継いでいます。
このころ仙台藩の財政は逼迫していたため、吉村は藩財政の再建に取り組みました。
幕府の許可を得て石巻に銭座 (ぜんざ)を開設し、寛永通宝を鋳造し利益をあげ、また、領内米を藩が独占購入し、江戸廻米 (えどかいまい)(江戸に輸送する米)を飛躍的に増大させて藩財政を潤わせたのです。
吉村は、こうして財政危機を克服し再建したことから「中興の英主(名君)」と讃えられています。
また、歌人としても名高く、書、絵画などにも優れており、藩の子弟教育のために学問所を開いて学芸を奨励しました。
享保9年(1724)には、伊達家歴代当主の肖像画を長谷川養辰に描かせるために、自ら筆を執って下絵を描いています。
そのなかには吉村の自画像もあり、それらの下絵には色使い・描き方などの指示が書き込まれています。
また、下絵だけでなく絹本に描いた彩色の「自画像」はじめ双幅の「竹梅図」、「六所玉河和歌御手鑑」 (ろくしょたまがわわかおてかがみ)一帖など数多くの優れた作品を残しました。
寛保3年(1743)、吉村(62歳)は、4男の宗村に家督を譲って隠居しました。
吉村は幕府に数年前より病のため隠居を申し出ており、大崎屋敷は自らの隠居生活をおくるために入手したと推測されます。
この屋敷は富士山を仰ぐ江戸南郊の高台で眺めのよい別邸でした。
ここで吉村は、和歌や書画を楽しんだと伝えられています。
吉村は宝暦元年(1751)、72歳で、大崎屋敷にて惜しまれつつこの世を去りました。
明治維新後、吉村が隠居した仙台藩伊達家大崎屋敷は、島津公爵家(旧鹿児島藩主)の屋敷となりました。
その後、一部は宅地になりましたが大部分は現在の清泉女子大学のキャンパスとなり、現在に至っています。
次回は、品川の大名屋敷 第4回「松江藩大崎屋敷と松平不昧」 (まつだいらふまい)をお送りします。
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