品川の大名屋敷 第5回

更新日:平成20年12月15日

五反田駅から北の方向にあたる、旧上大崎村と下大崎村にまたがる高台には、備前 (びぜん)岡山藩(禄高31万5,000石)池田家の下屋敷「大崎屋敷」がありました。

東五反田五丁目にある池田山公園は、その下屋敷跡の一部分で、今でもこの付近は池田山と呼ばれています。

大崎屋敷は、上屋敷などが火災に遭ったときの避難所になったり、藩主やその家族の遊興のための別邸という役割をもっていました。

ときには藩主が隠居した時の住まいにもなりましたし、鉄砲の射撃訓練場などにも使用されたといいます。

さて、岡山藩が大崎に広大な下屋敷を構えるまでの経過をみてみましょう。

3代藩主池田光政 (みつまさ)のとき、明暦3年(1657)1月18日から20日にかけて、江戸の6割を焼いたという「明暦の大火」 (めいれきのたいか)が発生し、岡山藩は、丸の内大名小路(千代田区)に拝領していた上屋敷をはじめ3ヵ所の屋敷を焼失してしまいました。

そのため岡山藩は、新たに中屋敷を浅草三十三間堂前(台東区)に拝領しましたが、翌年すぐに、この屋敷を相対替 (あいたいがえ)(交換)して下谷寺町(台東区)に「下谷邸」を建て、世継ぎであり後に4代藩主となる池田綱政 (つなまさ)とその妻の屋敷としました。

ところが、寛文8年(1668)2月に起きた上野周辺の大火によって、この屋敷も焼失してしまったのです。

藩主光政は、藩の重臣たちに、新たな下屋敷の候補地を選定させ、その結果、候補地を上渋谷村と大崎村の2ヵ所にしぼり、実地調査によって、大崎を下屋敷候補地に決定しました。

候補地決定後、藩主光政は、下谷邸を返上するかわりに、大崎に下屋敷拝領を希望するという願いを幕府に提出しました。

また、同時にこの大崎の地に、屋敷畑や菜園を所有していた大和新庄 (やまとしんじょう)藩主 桑山家と上総 (かずさ)飯野藩主 保科家 (ほしなけ)から1万5,800坪余を抱屋敷地として購入しました。

寛文10年(1670)4月には、この抱屋敷に隣接する1万1,500坪余を拝領屋敷として下賜され、合計2万7,300坪余の大崎下屋敷となりました。

同じ月の23日に、藩主光政がこの地を訪れたといいます。

その後も隣接する百姓地や武家地を抱屋敷として購入し、敷地の拡張をはかっていきました。

最後に購入した、宝永5年(1708)の表門外側左右の百姓地3,000坪余を合わせると、40年近くかけて手に入れた下屋敷の総面積は3万7,600坪におよぶ壮大な規模となりました。

このように敷地は拝領部分と抱え部分が入り組んでいましたが、屋敷を使うにあたっては、取得形態にこだわることはなかったようです。

池田家は、寛文10年(1670)以降、江戸時代を通して総面積3万7,600坪余の「大崎屋敷」を所持していました。

明治になってからも、多くの部分を池田侯爵邸として使用していましたが、大正時代末期から次第に宅地として開発、分譲されていきました。

次回は、品川の大名屋敷 第6回 岡山藩池田家「大崎屋敷の景観と屋敷内の産物」についてをお送りします。

 

品川大名屋敷5
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