品川の大名屋敷 第10回

更新日:平成21年2月1日

弘前藩津軽家-突然の戸越村への屋敷替え-

陸奥国(むつのくに)弘前藩(ひろさきはん)(青森県弘前市)津軽家(つがるけ)は、今の青森県と岩手県付近を支配していた南部氏の家臣でした。

しかし豊臣秀吉の全国統一の過程で独立し、現在の青森県西部、いわゆる津軽地方を所領する大名となりました。

天正18年(1590)初代大浦(おおうら)(津軽)為信(ためのぶ)が4万5000石を所領して以来、明治維新に至るまで14代の藩主が一貫して当地を治め、その間の文化(ぶんか)5年(1808)には高直(たかなお)しをうけて旧領のまま、10万石となっています。

安政(あんせい)2年(1855)頃の津軽家の江戸屋敷は、上屋敷が本所二ツ目(ほんじょふたつめ)(墨田区)に、中屋敷が、戸越村・浜町(はまちょう)(中央区)・本所(ほんじょ)三つ目通(みつめどお)り(墨田区)の3ヵ所に、下屋敷が亀戸(かめいど)(江東区)などにありました。

この江戸屋敷の中で、戸越村(とごしむら) 中屋敷(なかやしき)は、突然の屋敷替(やしきがえ)によって得られたものです。

場所は、今の品川区戸越一丁目と平塚二丁目付近にあたり、安政2年(1855)の時点では、約2700坪の広さがありました。

ふつう屋敷替は、内々に話があるものですが、このときは参勤中(さんきんちゅう)の藩主に急ぎの使が出されていることから、突然の話であったことが窺(うかが)えます。

沙汰(さた)(指令)が出てから屋敷替が完了するまで、約10日間という、異例の早さで行われた屋敷替の顛末(てんまつ)をお話しましょう。

文政10年(1827)閏(うるう)6月19日、老中(ろうじゅう)から弘前藩主・津軽(つがる)越中守(えっちゅうのかみ)信順(のぶゆき)へ「御用の儀(ぎ)があるので、明20日登城(とじょう)するように」と指示が出されました。

藩主津軽信順(のぶゆき)は参勤中のため、名代(みょうだい)として支藩の黒石(くろいし)藩、津軽左近将監(さこんしょうげん)順徳(ゆきのり)が登城しました。

御用の内容は「向柳原(むこうやなぎわら)(台東区鳥越(とりごえ)一丁目)の中屋敷を返上させ、代わりに戸越村の鳥取藩池田家の下屋敷のうち、6000坪を与える」というものでした。

向柳原の屋敷は、本所の上屋敷より江戸城に近いという利便性もあり、さらに御殿(ごてん)や、藩士の詰める大きな建物もある典型的な大名屋敷でした。

その上、屋敷に接して荷揚場が設けられており、藩主家族の住まいや、藩の江戸での活動拠点としても格好のものだったと思われます。

屋敷替の申し渡しのあった翌々日の22日、津軽藩は家臣(かしん)に、池田家戸越屋敷を見に行かせました。

見に行った小山内十兵衛は、周囲は畑や藪で「下屋敷」とは名ばかり、屋敷守(やしきもり)の長屋以外は何もなく、敷地は残らず畑であると周辺の絵図付で報告書を作成しています。

しかも、今回拝領(はいりょう)するところには、建物はなく、畑だけの土地でした。

これでは、理不尽ともいえる屋敷替ですが、屋敷替の申し渡しから8日後、29日には、津軽家へ、戸越屋敷の引渡しが行われました。

さらに、7月2日、幕府に返上する向柳原の中屋敷を改めるので、立ち会うようにと、幕府普請方(ふしんかた)から通知が出されています。

このように約10日間という短期間で、現地確認から屋敷引渡し、返上が行われましたが、その理由は定かではありません。

しかし、この時期は、藩主信順の素行の悪さや浪費から、藩内対立に至った「津軽騒動」の初期にあたり、お家騒動の兆しを見た幕府が弘前藩へのぺナルティーとして行ったのか、あるいは藩内改革派が幕府に根回しした上での、支出削減策の一端であったかもしれません。

その後、この戸越の地に建物が建てられたかどうかは不明です。

弘前藩の江戸屋敷は、本所など水運の便も良い江戸城の東側に固まっており、戸越のこの屋敷だけが離れています。

その事から考えると、この屋敷は藩主家族が暮らすという中屋敷本来の目的からかけ離れ、年貢のかからない畑として使われ続けたのではないでしょうか。

  

 大名屋敷101 

 「品川区史」附図より

 

次回は、品川の大名屋敷 第11回 熊本藩細川家戸越屋敷1-数寄屋造りの御殿と広大な庭園 をお送りします。

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