品川の大名屋敷 第12回

更新日:平成21年4月1日

熊本藩(くまもとはん)戸越屋敷-焼失後の戸越屋敷の変遷-

前回、お話したように10万坪に及んでいた熊本藩の戸越下屋敷は、南北に走る馬場(ばば)で東西(とうざい)に二分(にぶん)されていましたが、延宝(えんぽう)6年(1678)の火災によって西側部分を焼失してしまいました。

その後、西側部分はどのような経過をたどったのでしょう。

延宝年間(1673~80)に編さんしたと推定される、幕府普請奉行(ふしんぶぎょう)の絵図からは、西側部分に広がる広大な屋敷地は無くなっています。

焼失後、戸越屋敷の様子は大きく変貌したことがうかがえます。

この変わりようを示すものとして、天和(てんな)2年(1682)の熊本藩の記録の中に、戸越村(とごしむら)・中延村(なかのぶむら)・下蛇窪村(しもへびくぼむら)のそれぞれの名主・地主と交わした 取り決め書が残っています。

それによると、戸越屋敷の土地に関して、 村々は、 築山(つきやま)・土手(どて)などは、平らにして返していただいたが、竹林(ちくりん)などは、こちらで好きに利用したいので、そのままにしておいてほしいと求めています。

この史料から、西側の広大な土地は、村々に返還されたことがわかります。

さて、東側部分ですが、元禄(げんろく)13年(1700)になると所有形態に変化がありました。

拝領地(はいりょうち)7200坪のうち3730坪余を幕府に返上するかわりに、本所猿江村(ほんじょさるえむら)の支藩熊本新田藩主細川利昌(しはんくまもとしんでんはんしゅほそかわとしまさ)(利重(とししげ)の子)の抱屋敷(かかえやしき)を拝領屋敷として取得し、さらに利昌(としまさ)の拝領地である白金屋敷(しろかねやしき)(寛文6年、利重のとき戸越屋敷と交換した替地)と交換を計画していたのです。

この返上した部分は、そのまま細川綱利(ほそかわつなとし)の預かり地として認められ、熊本藩が所持する拝領地とともに、細川家が管理していました。そこには門番と留守居(るすい)が常駐する屋敷地だったのです。

宝暦(ほうれき)8年(1758)、熊本藩は預かり地を幕府に返上し、それに伴いその土地に新たに道敷(みちしき)ができ、奥高家(おくこうけ)畠山紀伊守(はたけやまきいのかみ)国祐(くにすけ)の拝領・預かりとなりました。

預かり地は、姫路藩主酒井忠以(さかいただざね)の屋敷、大番頭(おおばんがしら)岡部長貴(おかべながたか)の下屋敷、旗本の西郷家(さいごうけ)の屋敷になるといった変遷がありました。

また、残っていた細川家の拝領屋敷分3470坪は、文化3年(1806)、浜町(はまちょう)にあった浜田藩(はまだはん)松平周防守(まつだいらすおうのかみ)松井康定(まついやすさだ)の下屋敷3200坪余と相対替(あいたいがえ)し、この時点で、熊本藩細川家は戸越屋敷をすべて手放すことになったのです。

その後、天保(てんぽう)13年(1842)伊予国松山藩松平隠岐守(いよのくにまつやまはんまつだいらおきのかみ)勝善(かつよし)の屋敷となり、幕末まで続きました。

近代以降については、明治新政府に上地(あげち)となり、民間へ払い下げられていくのですが、明治23年(1890)に、財閥三井家(ざいばつみついけ)の所有となりました。

そして三井家は、その地に大正7年(1918)に三井文庫を開設しました(三井文庫は昭和40年に中野区に移転)、三井家所有地の一部は昭和7年(1932)6月に戸越(とごし)小学校用地・公園用地として荏原町(同年10月に市郡(しぐん)合併で荏原区となる)に寄附されています。

現在の戸越公園は細川家下屋敷時代の東庭園(ひがしていえん)の一部を利用したもので、池を中心に丘陵(きゅうりょう)、渓谷(けいこく)、滝などが配置されていて、大名屋敷の面影をとどめています。

次回は、品川の大名屋敷 第13回 三日月藩(みかづきはん)(兵庫県)森家(もりけ)-品川区内唯一の上屋敷-をお送りします。

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