品川の大名屋敷 第15回

更新日:平成21年7月1日

島津淡路守(しまづあわじのかみ)抱屋敷と宿場救済事業

島津淡路守抱屋敷の場所は、現在の品川図書館や六行会(りっこうかい)ホールなどが入る六行会ビル周辺にあたります。

島津淡路守は日向国(ひゅうがのくに)(宮崎県)佐土原藩(さどわらはん)の藩主で、石高(こくだか)2万7千石の外様大名です。

佐土原藩の成立は豊臣秀吉が天正(てんしょう)15年(1587年)に島津氏15代にあたる島津貴久(たかひさ)の子家久(いえひさ)にこの地を与えたときでした。

家久の死後、子の豊久(とよひさ)が跡を継いだのですが、関ヶ原の戦いに敗れ戦死、領地は徳川家康に没収され、幕府領(ばくふりょう)となりました。

しかし間もなく、家康は慶長(けいちょう)8年(1603年)貴久の弟の子島津征久(ゆきひさ)(以久)を藩主としました。

以後11代にわたって治め、明治に至ります。

佐土原藩の江戸屋敷は、上屋敷が麻布(あざぶ)三軒家町(さんげんやちょう)(現、港区西麻布)にあり、抱屋敷は南品川宿にありました。

この抱屋敷はもともと島津家本家の鹿児島藩(薩摩藩)藩主島津家が所有していましたが、安永(あんえい)9年(1780年)に分家である佐土原藩8代藩主・島津淡路守久柄(ひさもと)に譲渡されたものです。

鹿児島藩と佐土原藩の関係は本藩(ほんぱん)と支藩(しはん)の関係に近いものでしたが、佐土原藩は他の藩の支藩のように世継ぎがないときに本藩へ藩主を出すこともなく、本藩から藩政などに介入されることはあっても本藩に対して影響力を持つことはなかったようです。

南品川宿内の抱屋敷の範囲を文化13年(1816年)の絵図からみると屋敷の北の端および西の端は蛇行する目黒川であり、南の端は海徳寺、東の端は貴布祢社(きふねしゃ)(今の荏原神社)で、広さは、約4000坪(1万3千平方メートル余り)ありました。

大正から昭和初期に目黒川の改修で川筋がかつての屋敷地の南側となり、屋敷地の位置は北品川二丁目20・21番、31~33番、一部は南品川一丁目2番および目黒川の水面上にあたると考えられます。

この屋敷は嘉永6年(1853年)、佐土原藩から豊後国(ぶんごのくに)(大分県)森藩藩主久留嶋家(くるしまけ)の家臣で医者の有冨(ありとみ)玄説(げんえつ)の所有となり、安政2年(1855年)には有富は南品川宿に売却しています。

いわゆる南品川宿の宿抱地(しゅくかかえち)となり、百姓戻り地となったのです。

この購入代金は266両で、資金は南品川宿の積立金を当てたものでした。

この積立は弘化(こうか)2年(1845年)より始められ、その目的は、伝馬役(てんまやく)など宿場(しゅくば)の負担軽減や飢饉・災害などの非常用のものでした。

この土地を取得してまもない安政2年の大地震の際には、購入した土地に菰張小屋(こもはりごや)を建てて避難所としました。

さらに安政4年(1857年)にはこの地に貸家を建てるために家作願(かさくねがい)が代官所(だいかんじょ)にだされ、万延(まんえん)2年(1861年)に許可がおり、荏川町(えがわまち)と呼ばれる町が形成されました。

このように所有者は幾度となく変わっていますが、この貸家はかつての鹿児島藩(薩摩藩)にちなみ、俗に薩摩屋敷(さつまやしき)と呼ばれていたと伝えています。

この話のなかに出てくる宿抱地時代の宿積立組織(しゅくつみたてそしき)の流れをくむのが財団法人六行会であり、現在に至っています。

次回予告

品川の大名屋敷 第16回は、上大崎村の越後(えちご)椎谷藩(しいやはん)、堀家下屋敷 をお送りします。

 

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