品川の大名屋敷 第16回

更新日:平成21年8月1日

上大崎村の越後(えちご)・椎谷藩(しいやはん)堀家(ほりけ)下屋敷(しもやしき)

越後国(えちごのくに)(新潟県)椎谷藩の堀家下屋敷は、現在の国立自然教育園の西側の位置にあり、JR目黒駅に近い上大崎二丁目10番付近で、5500坪を有する下屋敷でした。

この地は、元禄(げんろく)2年(1689)から宝永(ほうえい)5年(1708)にかけて武家地を幕府が召し上げたのち、村役人(むらやくにん)に預けられ、さらに年貢のかかる百姓地(ひゃくしょうち)、そして再び武家地へと短期間に移り変わり、宝永5年(1708)12月に堀出雲守(いずものかみ)の下屋敷になったものです。

弘化(こうか)3年(1846)6月には、このうち3000坪を御留守居役(おるすいやく)の土岐丹波守頼旨(ときたんばのかみよりむね)に貸したので、実質2500坪が椎谷藩下屋敷でした。

この時の屋敷地はL字形であったと推定されます。

椎谷藩の始祖(しそ)、堀直之(ほりなおゆき)は少年時代、2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の近習(きんじゅう)として仕え、大坂夏の陣の功績によって元和(げんな)2年(1616)、椎谷(現在の新潟県柏崎市)周辺に5500石を賜りました。

直之は寛永10年(1633)に上総国(かずさのくに)の4000石を加増(かぞう)されて、9500石となり、1万石以上が大名ですので、直之の代は大名ではなかったのですが、直之は江戸町奉行や寺社奉行という要職を歴任した名臣(めいしん)として名が残っています。

直之の跡を継いだ直景(なおかげ)の時代に、徳川秀忠から下総(しもうさ)・相模(さがみ)・甲斐国(かいのくに)の2000石が与えられ1万1500石の大名となったのです。

このとき1500石は弟の直治(なおはる)に分けたので、椎谷藩は幕末まで1万石の小大名でした。

元禄11年(1698)第4代当主の堀直宥(ほりなおさだ)のとき、関東の藩領(はんりょう)が越後に移され、全所領(ぜんしょりょう)が越後一国となりました。

このときが椎谷藩の立藩(りっぱん)(藩が成立)とされています。

もともと堀家は外様大名(とざまだいみょう)の家筋(いえすじ)だったのですが、将軍の近習で大名に取り立てられた場合、譜代として扱われるので、椎谷藩堀家は譜代大名(ふだいだいみょう)として扱われました。

また、2代藩主の堀直央(なおなか)の代までは参勤交代をする大名でしたが、3代直恒(なおつね)以降は参勤交代を行わないで、江戸に定住して幕府に仕える定府大名(じょうふだいみょう)となりました。

明治以降のこの屋敷地がどのように変わっていったかはよくわかりませんが、昭和7年(1932)には築地から海軍大学校(1945年廃止)や国立予防衛生研究所が移転してきました。

同研究所は1992年新宿区戸山に再移転しています。

次回は、品川の大名屋敷 第17回 千代ヶ崎(ちよがさき)と島原藩(しまばらはん)松平家抱屋敷をお送りします。

 

 

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