品川の大名屋敷 第17回

更新日:平成21年9月1日

品川歴史散歩案内 品川の大名屋敷 第17回 21.8.1~8.31

島原藩松平家抱屋敷(しまばらはんまつだいらけかかえやしき)

肥前国(ひぜんのくに)島原藩(長崎県)松平家の抱屋敷は、JR目黒駅の北西、現在の品川区上大崎三丁目18番、21番から27番と目黒区目黒一丁目、三田(みた)一丁目の一部の範囲にあり、二つの区にまたがっています。

安政3年(1856)ころの松平家抱屋敷は、2万1千坪余りで、現在の品川区に当たる部分は概ね6千2百坪ほどでした。

屋敷の門は目黒駅近くの品川区側にあったことが切絵図(きりえず)から読み取ることができます。

松平家がこの抱屋敷を手にいれた経過はよくわかりませんが、元禄年間(げんろくねんかん)の検地のときには存在していたようです。

この屋敷の主(あるじ)、松平家は、寛文(かんぶん)8年(1688)高力隆長(こうりきたかなが)の改易(かいえき)により、当主(とうしゅ)松平忠房(ただふさ)が丹波国(たんばのくに)福知山(ふくちやま)から入り島原藩主となりました。

島原藩は、江戸時代初期には日野江(ひのえ)藩とも呼ばれ、有馬家が治めていましたが、元和(げんな)2年(1616)に有馬家(ありまけ)が延岡藩(のべおかはん)に転封(てんぷう)になると、その後は天領(てんりょう)(幕府の直轄地(ちょっかつち))の時代を経て松倉家が治め、藩の名称も島原藩となりました。

2代目藩主松倉勝家(まつくらかついえ)のときの寛永(かんえい)14年(1637)、天草四郎(あまくさしろう)を総大将とする島原の乱がおこり、勝家は鎮圧することができず、また幕府から領民に反乱を起こさせた責(せき)を問われ平定後(へいていご)、処刑されています。

その後高力家(こうりきけ)が入ったものの2代で改易となり、松平家の領地になります。

寛延(かんえん)2年(1747)には宇都宮(うつのみや)藩主(はんしゅ)戸田家(とだけ)と、譜代大名が入れ替わり治めていました。

戸田家が2代治めたあと、また交替して安永(あんえい)3年(1774)に再び松平家が戻り幕末まで続きました。

松平氏は室町時代の三河国(みかわのくに)松平郷(まつだいらごう)の小豪族(しょうごうぞく)で、のち徳川将軍家の母体となりました。

島原藩主の松平家は、早い時期に分家となった家筋で十八松平(じゅうはちまつだいら)のひとつに数えられ、戦国時代三河国深溝城主(ふこうずじょうしゅ)だったことから深溝松平家といわれています。

江戸時代には、このような分家筋のほか、徳川家康と血縁関係・姻戚(いんせき)関係のあった家臣にも松平の姓が与えられました。

幕府は仙台藩の伊達家(だてけ)や金沢藩の前田家などのように外様大名(とざまだいみょう)にも松平の称(しょう)を与えています。

さて、ここ松平家抱屋敷の付近は江戸時代には字(あざな)を「千代ヶ崎(ちよがさき)」と呼んでいました。

この地名について江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』の千代ヶ崎について次のような伝承が記されています。

「上大崎村・中目黒村と三田村にまたがって松平主殿頭(とのものかみ)の抱屋敷があり、屋敷のなかに池があり昔は大変に広かったという、この池に新田義興(にったよしおき)(南北朝時代の武将)の侍女(じじょ)千代(ちよ)が身を投じたことから〈千代〉の名をとって地名にしたという、池の近くの古い松の木を千代が衣掛松(ころもかけまつ)といいました」とあります。

また、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』によるとこの屋敷からの眺望(ちょうぼう)は絶景であったとされ、歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)の『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』シリーズにも「目黒千代が池」の題名で千代ヶ崎を下から眺めた様子が描かれています。  

千代が池

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌川広重(初代)「名所江戸百景 目黒千代が池」

 次回は、品川の大名屋敷 第18回 伊勢国(いせのくに)桑名藩(くわなはん)松平家抱屋敷 をお送りします。

 

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