品川の大名屋敷 第18回

更新日:平成21年10月1日

品川歴史散歩案内 品川の大名屋敷 第18回 21.9.1~9.30

伊勢国(いせのくに)桑名藩(くわなはん)松平家抱屋敷(まつだいらけかかえやしき)

伊勢国(現、三重県)桑名藩松平家(所領11万石)の抱屋敷は、首都高速2号目黒線を挟んだ上大崎一丁目21番と22番、上大崎三丁目7番付近にありました。

安政(あんせい)3年(1856)頃の屋敷の広さは4,796坪で、このうち4,300坪は上大崎村で残りの496坪が下大崎村のなかにありました。

安政3年頃の藩主は、徳川家康の異父弟を先祖に持つ久松松平家の松平越中守定猷(まつだいらえっちゅうのかみさだみち)で、寛政の改革を主導した老中(ろうじゅう)松平定信(さだのぶ)の曾孫(ひまご)にあたり、絵図や古文書には通称名の松平和之進(かずのしん)と書かれたものが多くみられます。

定猷は天保13年(1840)に藩主になったのですが、その治世は大火や飢饉さらに地震災害のため多難で、藩財政は窮乏を極めたといいます。

また、嘉永6年(1853)、徳川家定(いえさだ)が第13代将軍になると、同じ「定」の字を避けるため、猷(みち)と名乗っています。

この屋敷地を最初に拝領(はいりょう)したのは、享保(きょうほう)10年(1725)のことで、本多伊予守(いよのかみ)でした。

松平家がこの地を手に入れたのは寛政(かんせい)12年(1800)のことで、京極家(きょうごくけ)から譲渡されたものでした。

その後、一時的に真田家(さなだけ)の屋敷地にもなっています。

当時の真田家(松代藩(まつしろはん))の当主・幸貫(ゆきつら)は松平定信の次男であり、両家は親密な関係にありました。

抱屋敷の譲り渡しには、地元の上大崎村・下大崎村も深くかかわってきました。

その上、新所有者は地元の村々に祝儀金を贈る慣例がありました。

文政(ぶんせい)6年(1823)の記録では、上・下大崎両村の村役人は計25両の祝儀を真田家に求め、贈られています。

そして、この地は文政13年(1830)には再び松平家に譲り戻されています。

桑名藩の立藩(りっぱん)

つぎに桑名藩の立藩についてですが、徳川家康は、交通の要所であったり、一揆(いっき)など反乱の起きそうなところには、信用できる家臣を配置しています。

桑名藩は慶長(けいちょう)6年(1601)正月に家康の四天王(してんのう)のひとり本多忠勝(ほんだただかつ)を藩主として立藩しました。

忠勝は、桑名城下の整備を行い、川の流れを変えて外堀(そとぼり)に利用するなど、町割(まちわり)の断行(だんこう)などの功績が知られています。

今でも桑名市の中心部には忠勝(ただかつ)が行った「慶長(けいちょう)の町割」のなごりを見ることができるそうです。

本多忠勝が藩主になったのと同時に桑名は東海道の伝馬宿(てんまじゅく)に指定されました。

宮(熱田宿(あつたじゅく))と桑名宿(くわなじゅく)の間は「桑名七里の渡(くわなしちりのわたし)」と呼ばれた海上七里(かいじょうしちり)の渡海路(とかいろ)で、両宿(りょうしゅく)ともに船番所(ふなばんしょ)があり、役人がいて出入りの船の検察・監督の任務についていました。

桑名藩は、本多家が2代治めた後、久松松平家(ひさまつまつだいらけ)や、家康の外孫(がいそん)の家系に当たる奥平松平氏(おくだいらまつだいらし)など、徳川家に近い大名が藩主となりました。

寛永(かんえい)12年(1635)美濃大垣(みのおおがき)(岐阜県大垣市)から松平定綱(さだつな)が桑名藩主となり、宝永(ほうえい)7年(1710)まで3代継承したのが久松松平氏、宝永7年にから文政(ぶんせい)6年(1823)まで7代110年にわたっては奥平松平氏、文政6年から明治維新まで再び久松松平氏が藩主となっています。

次回のお知らせ

次回は、品川の大名屋敷 第19回 大和国(やまとのくに)柳生藩(やぎゅうはん)下屋敷(しもやしき) をお送りします。

 

  

 品川の大名屋敷18 

 

 

 

 

 桑名の白魚漁と桑名城(右中央)

『東海道名所図会』より

 

 

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