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明治維新後の品川 第6回

更新日:2012年8月2日

幕末から明治維新にかけての品川湾は、港として大きな役割を果たしています。

品川湾は明治維新前後までは、しばしば「品川沖」といわれていました。

この品川沖に、徳川慶喜が軍艦で大阪から逃げ戻って以来、幕府の軍艦が碇泊するようになったのです。

さらに、江戸が東京と改称されて間もなくの、慶応4年(1868)8月19日、品川沖に碇泊していた旧幕府軍の軍艦「開陽」以下8隻を率いて榎本武揚が江戸を脱出、北海道方面に逃走するという事件が起こりました。

海軍力においては、幕府軍は優秀であり、その幕府の軍艦を榎本が全部引き連れていったことは、品川の人びとだけでなく、東京市民にとっても驚きだったのです。

その後も、品川沖は明治政府によって、軍艦の碇泊にしばしば利用されることになり、軍事的に大きな役割を果たすことになりました。

 

品川沖の軍艦碇泊は天皇の行幸にも利用されました。

当時は陸上交通よりも海上交通の方がはるかに便利で安全でした。

明治4年(1871)11月21日、造船所天覧のための横須賀行幸では、宮城を馬車で出て品川沖で軍艦に乗り、23日の帰路も再び品川沖まで軍艦を利用し、汽船「弘明丸 (ぐみょうまる)」に乗り換えて浜御殿に到着しています。

同5年(1872)の4月28,29日の浦賀行幸、5月の大阪や中国・西国巡幸も同様で、いずれも浜御殿で汽船に乗り、品川沖で軍艦に乗り換えて出航し、巡幸を終えた帰りは品川沖で軍艦から汽船に乗り浜御殿に着いています。

 

明治5年11月の記録によれば、品川湾には龍驤 (りゅうじょう)・筑波・春日・鳳翔・第一丁卯 (ていぼう)・孟春・東・日進・富士山・雲揚・第二丁卯・大坂・乾行 (けんこう)・貯蓄などといった艦船が碇泊していました。

品川の海は、こうした艦船の碇泊しているところとして品川宿の人びとだけでなく、東京市民の関心を集めていたことでしょう。

 

このように碇泊していた艦船へ渡るための通船(陸地と本船との連絡のために用いる小船)については、料金を定め、各艦船で雇うことになっていました。

手繰船 (たぐりぶね)三人乗が1円33銭、大荷足船 (おおにたりぶね)が62銭5厘、荷足船二人乗53銭3厘と料金が決められていたのです。

 

こうして、軍艦が品川湾に休養補給などで碇泊することは続いていましたが、明治39年(1906)12月9日には品川町を揺るがす大事件が起こりました。

年明けに渡英するため、品川湾に碇泊していた軍艦「千歳」へ渡る通船が、突風を受けて転覆し、千歳の乗組員ら兵員65名・見送人15名、計83名が亡くなったのです。

遭難者の救助は品川町をあげて行われ、亡くなった人々のためには南品川1丁目の海徳寺にて大法会が修されました。さらに、13回忌の大正8年(1919)には、のちに「千歳」の艦長を務めた海軍大将山屋他人 (やまやたにん)の揮毫で「軍艦千歳殉難者之碑」が海徳寺に建立されましたが、この碑は山門を入って進んだ左手に今も見ることができます。

 

明治6
・品川海上眺望図(小林清親・画)

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