明治維新後の品川 第7回
更新日:平成20年12月15日
嘉永6年(1853)のペリー来航後、黒船を迎え撃つために急遽築造された品川台場(品川砲台)は、海上に浮かぶ第一から第七までの7つでしたが、第四と第七の台場は未完成のままであり、なかでも第七は海面を埋め立てただけでした。
他に陸続きの台場「御殿山下砲台」が造られました。
しかし、幕府の開国政策によって、完成した台場の大砲を使うことなく終わったことは、江戸庶民だけでなく品川宿周辺の村々にとっても幸運なことでした。
明治維新後の品川台場は、明治6年(1873)に第一師団の中に設けられた海岸砲隊が管理にあたり、同8年(1875)以降大正3年(1914)までは陸軍省が管轄していました。
第四台場は維新後に払い下げられ、大正元年(1873)には東京府から緒明 (おあき)菊三郎に払い下げられて造船所となりました。
陸軍省によって管理されていた品川台場は、大正3年、4年の二回にわたって処分され、第三、第六台場は大正4年(1915)7月4日に東京市に払い下げられ、同13年(1924)に東京府によって史跡に仮指定され、同15年(1926)10月20日に史跡名勝天然紀念物保存法によって国の史跡に指定されています。
このうち第三台場は、関東大震災によって破壊されたため復旧工事が行われ、台場公園として一般に公開していますが、第六台場は原型を残していたため、貴重な史跡として保存されています。
その後、東京湾に浮かぶこれら六つの人工島は、史跡として指定された二つの台場を残し、埋立地に埋没したり、航路の支障になるということで撤去されたりしてきました。
第四台場は、大正14年(1925)に埋め立てがはじまった旧天王洲町(東品川二丁目)の北側につながって陸続きとなり、昭和30年(1955)に港区から品川区に編入されています。
第一、第五台場は品川埠頭の埋め立てで昭和37年(1962)に撤去埋没してしまいました。
第二台場は東京港整備の一環として、昭和37年末に海上からその姿を消したのです。
つぎに、品川燈台についてお話ししましょう。
品川台場の中の第二台場に設けられた品川燈台は、観音崎燈台・野島崎燈台に次いで造られた、日本で三番目に古い洋式燈台です。
明治3年(1870)正月から建設にとりかかり、3月5日に竣工し、同日から点灯しました。
円筒型の煉瓦造りでデザイン的にもすぐれた白色の建物です。
この品川燈台を造営したのは、フランス人の横須賀造船所首長フランソワ・レオンス・ヴェルニーでした。
燈台の頂点には風見(風向計)があり、東西南北の方向を示す頭文字は英語からとってE・W・S・Nとなっているのが一般的であるのに、フランス人技師らしく西が「W」ではなく、フランス語から「O」が用いられているところに特徴があります。
これは、フランス語でも「西」は「ウェスト」というのですが、英語とは綴りが異なり、「OUEST」と表記するためです。
この燈台の燈火の高さは、満潮のとき約16メートル、燈火の発光は不動赤色、建設当初の光線の届く距離は約16キロメートルで、後に光力を増大させ24キロになりました。
燃料は石油を用いていました。
このように、早くから海上の安全に寄与してきた品川燈台ですが、東京湾築港計画のなかで航路に支障をきたすとして第二台場が撤去されるのに伴い、昭和32年(1957)に解体され、昭和40年3月に開村した愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
昭和43年(1968)4月25日に国の重要文化財に指定されました。
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