明治維新後の品川 第14回

更新日:平成20年12月15日

前回お話したような経過をたどり、新橋(汐留)・横浜(桜木町)間の本格的な鉄道建設は始められました。

なかでも難工事であったのは、高輪と神奈川(平沼)の海中築堤工事といわれています。

このほかにも、八ッ山・御殿山・権現台 (ごんげんだい)(今のJR大井工場付近)・神奈川の切り通し工事、六郷川・鶴見川などの架橋工事など、数々の難工事がありました。

 

品川区内では、八ッ山から御殿山間の切り通し工事が行われ、完成は明治5年(1872)4月初めで、翌月の品川・横浜間の仮営業直前でした。この切り通しによってできた八ッ山橋は、神奈川の青木橋とともに、道路が線路をまたぐ、日本で初めての立体交差の陸橋となったのです。

これは西洋型木造橋で、当時の長さは16.2m、幅は7.2m、明治4年(1871)5月15日に着工し、翌年1月14日に完成しました。

この切り通し工事で生じた土砂は、高輪の海中に作る堤の造成に使われたのですが、堤の石垣には、品川台場のうち未完成のまま築造中止した第7台場の石も使用されています。

 

こうして、日本最初の鉄道建設は、明治3年(1870)3月に鉄道建設の技師長エドモンド・モレルの指導で測量に着手してから、幾多の困難を乗り越え、明治4年(1871)8月には、横浜から品川(東海寺裏)までの試運転を始めるまでになりました。

そして同年11月に、条約改正予備協議や欧米の文物・制度の視察などのため、岩倉具視や久米邦武らの岩倉遣米欧使節団一行が欧米に出発する際には、その一部は品川から試運転中の蒸気車で旅立つこととなったのです。

このときは、品川駅はまだ完成していなかったため、ホームもなく、乗客は地上から直接客車に乗ったと記録されています。

乗車した場所は東海寺裏付近と推定されています。

 

明治5年(1872)5月7日、品川・桜木町間の仮営業が開始されました。

まだ、途中駅が完成していなかったため無停車で、距離23kmを所要時間35分、一日6往復の運転でした。

仮営業開始後、最後まで残っていた汐留・高輪間の築堤工事も同年9月には完成して、正式に新橋・横浜間が開業できるようになり、9月12日に明治天皇が出席して開業式が行われる運びとなったのです。

そして、鉄道開通50周年の大正11年(1922)には、この日を鉄道記念日(現在は「鉄道の日」)として制定しました。

ただし、日付については、開業当時はまだ太陰暦だったため、当時の日付を太陽暦になおした「10月14日」を鉄道記念日としています。

 

この鉄道建設にあたり、指揮を執っていたのは旧・長州藩士の鉄道頭 (てつどうのかみ)・井上勝 (いのうえまさる)でした。

井上は、文久2年(1862)に伊藤博文・井上馨らと渡英してロンドン大学で鉄道学・鉱山学を修め、帰国後は鉱山・鉄道関係の職を歴任したのち初代鉄道頭に就任、わが国鉄道の創設者といわれています。

さらにこの後も、国内の鉄道網の整備に努め、「鉄道の父」と呼ばれましたが、明治43年(1910)、英国訪問中に病を得てロンドンで死去しました。

その墓は、東海道線と東海道新幹線に挟まれた東海寺大山墓地に、一代の情熱を注いだ鉄道の安全を見守るかのように建立されています。

また、日本最初の鉄道建設に尽力した技師長エドモンド・モレルは、在職1年6ヶ月で鉄道の開通を見ることなく明治4年9月23日に29歳で病死、横浜の外国人墓地に眠っています。

日本に鉄道の夜明けをもたらした二人が、ともに外国で病にたおれたというのも、不思議なめぐり合わせといえましょう。

 

明治14-1明治14-2

◆左から

・井上勝墓(東海寺大山墓地内)

・エドモンド・モレル墓(横浜・外国人墓地内)

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