明治維新後の品川 第17回

更新日:平成20年12月15日

江戸時代の品川区域は、品川宿と海岸部の猟師町のほかは農村でした。

目黒川と立会川流域の平坦部には水田が開かれていましたが、大部分は丘陵地で畑が多く、旱害 (かんがい)が起こりやすい土地柄でした。

そのため、灌漑用水の開通は、品川区域の農民にとって待望久しいものだったのですが、品川用水が幕府の費用で開鑿 (かいさく)されたのは寛文9年(1669)のことでした。

この品川用水は、玉川上水を境村(今の武蔵野市・境)から分水していた仙川用水を野川村で分水し、品川領の9宿村を潤していったのです。(品川区域でも小山村と中延村には水路が引かれていませんでした。)

 

ところが、玉川上水から取り入れた水が品川区域まで届くには距離もあり、必要な水量が届かなかったりすることもあったため、幕府は途中の村々での分水を禁止したり、水路の改修工事をしばしば行なったりしました。

元禄4年(1691)の大改修後は、品川用水が途中で壊されたり、盗水されたりすることのないよう、それらを禁じた高札を途中の村々5箇所に建てたのです。

また、境の分水口(取り入れ口)などには水番人がおかれたのですが、その費用は用水の恩恵をうけている宿村が組合をつくって負担していました。

さらに、部分的な改修工事については、幕府が行なう「御普請」ではなく、用水を使う村々が負担する「自普請」によるとされていたため、負担も大きかったのですが、ともあれ品川区域の村々は、水路の保全と用水保護がなされており、農作物に必要な水は確保されていたのです。

 

しかし幕府が滅び、明治新政府になると、品川用水の恩恵を受けていた宿村は、徳川幕府の時代と同じ権利を引き継ぐことができるのか、大変不安な状態になりました。

実際、慶応4年(1868)に高札が撤去されたことは、最も大きな心配の種だったのです。

同年、6月4日、玉川上水・神田上水は明治新政府に引き渡され、水源を玉川上水にゆだねる品川用水も、当然のことながら新政府に引き渡され、改めて市政裁判所の管理下に入りました。

品川領の名主らは、大いに不安にかられ、3日後の6月7日には、品川領の名主総代の下蛇窪村と大井村の名主自らが供を連れて、境村と羽村へ状況視察に出かけたほどでした。

当時の視察記録には、現状を見届け、幸い特に心配することもなく安堵したと書かれています。

明けて明治2年(1869)2月、上水の管理は民部省に移され、同4年11月には東京府の管掌下に属することになりました。

 

その後の経過は断片的な記録のみですが、その中に、明治9年(1876)、品川用水は従来の品川領9カ宿村に仙川組(現・調布市)4カ村の専用だったのを、地租改正の折に新井宿 (あらいじゅく)村と下大崎村を加え、品川用水組合は11カ村になったとあります。

その理由は、下大崎村は目黒川南岸に位置しており三田用水の恩恵を受けることがなく、また、新井宿村は大井村の南に隣接していて六郷用水の恩沢に浴することができず、ともに旱害に苦しめられていたためでした。

その後、用水路は受持人2名が選出され、戸長役場が管理していましたが、明治19年(1886)に用水の管理人は荏原郡長となりました。

明治24年(1891)3月、水利組合条例により、組合管理者の荏原郡長が従来の品川用水組合を継承するために、「品川用水普通水利組合」設置が東京府知事より認可され、同時に各町村別の分水は、内堀として、品川町内堀普通水利組合といったように各町村に設置されて、町村長が管理者となったのです。

 

明治17
・品川用水取水口跡(武蔵野市・境)
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