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明治維新後の品川 第18回

更新日:2012年8月6日

江戸時代、 灌漑 (かんがい)用水をめぐる水争いや事件は各地でみられたのですが、明治になっても嘆願や訴訟事件は発生していました。原因のひとつに水車の設置があります。

品川用水路に水車営業を許可することは、用水本来の目的とは相容れないのですが、水車からの用水使用料収入は無視できないものでした。

水路浚渫 (しゅんせつ)のために人足を出させたり、用水路を維持するための修繕費を徴収したりしたのです。

 

明治12年(1879)ころの品川用水路関係に設置されていた水車の数は、大井村が7輪 (りん)、居木橋 (いるきばし)村1輪、下蛇窪 (へびくぼ)村2輪、上蛇窪村1輪、上連雀 (かみれんじゃく)村(今の三鷹市)1輪の12か所でした。

明治14年(1881)には野沢村(今の世田谷区)に1か所新設されたのですが、許可されるまでは容易ではなかったようです。

これらの水車からは、用水使用料を徴収していたのですが、明治18年(1885)になると用水維持財源が不足してその手当に苦しみ、戸越村2輪の他、碑文谷 (ひもんや)村(目黒区)世田谷村、新川村(今の三鷹市)各1輪の5箇所を新設許可して、用水堀浚渫などのため用水使用料を徴収しています。

 

しかし、水車の設置は用水の水量に大きな関係があり、とくに旱魃 (かんばつ)のときには水路の末端にあたる地域に及ぼす影響は少なくなく、時には水車への取水堰 (ぜき)閉鎖を命じることもありました。

このため、農業のみの従事者と、水車営業する者との両者から、管理者荏原郡長には陳情書がしばしば出されています。

 

なかでも、明治25年(1892)から26年(1893)に至る「上蛇窪分水口」事件は注目される事件でした。

この、上蛇窪分水口による村々の争いは絶えなかったのですが、この時は、明治24年(1891)の分水口改修工事で、水の取り入れ口を従来の位置より7寸(約2cmあまり)引き上げたことが発端でした。

引き上げた結果、上蛇窪村一帯の耕地は用水の流通が悪くなり、植付けができない状況に陥ったのです。

上蛇窪村の関係者は、大井村や関係の内堀組合委員に陳情し、25年7月から翌年3月にかけて交渉が続けられました。

しかしながら上蛇窪村の農民は交渉がなかなか進まないのにいらだち、耕地の窮状を救うためにこの分水口を破壊し、捕らえられてしまったのです。

窮状を訴えすぐ放免にはなりましたが、未だ取り入れ口は高い位置のままだったので、再度陳情したのですがとりあげられず、郡長を相手に訴訟を提起することになりました。

郡長は、取り入れ口を2寸下げるとして工事を行いましたが、まだ不公平であったため、明治28年(1895)7月17日、東京府知事により「元に戻す」裁定が出て、決着をみたのです。

この事件については、上神明天祖神社内に記念碑があります。

大正5年(1916)に建立された「御大典紀念」碑の裏面に、水争いの経緯と成果を記念する内容を記し、「上蛇窪用水紀念」とあるのがそれです。

 

品川用水が田畑を耕作するうえで、区内各村に大きな貢献をしたことはいうまでもないのですが、その一方で、区域内農村の手工業の展開に対応して、動力としての水車の利用がさかんになったこともまた事実でした。

用水組合へ多くの使用料が払われたとはいえ、本来の農業用水を利用する側からみれば、大きな矛盾をはらんでいたわけであり、水車営業と水田灌漑との利害の対立が生じたのです。

その意味で、「上蛇窪分水口事件」は、その代表的な事例であったといえましょう。

 

明治18-1明治18-2

◆左から

・上神明天祖神社記念碑・表(御大典紀念)

・上神明天祖神社記念碑・裏(上蛇窪用水紀念)

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