東海道品川宿のはなし 第18回

更新日:平成20年12月12日

品川宿は、近世初頭から東海道の第一の宿として栄え、商品の流通は早くから活発な地でした。

東海道を行き来する旅人のために旅籠屋が整えられ、やがて水茶屋ができて、江戸市中からの遊山客も増え、また生活に必要な品々を扱う商人も急増していきました。

 

天保9年(1838)の調べでは、品川宿の家数1,367軒のうち専業農家はわずか28軒で、残り1,339軒は、農間商い、諸職人、旅籠屋・水茶屋などの商人、それに漁業などで生計を立てていました。

 

また、天保14年(1843)の調べでは、商いの店が601軒あり、31の業種別になっています。

なかでも一番多いのは宿場らしく旅籠屋で111軒、次に水茶屋が64軒で続きます。

質屋も40軒あり、品川宿の質屋には、本陣への夜具を差し出す義務がありました。

また質屋株には、夜具・蒲団の類を旅籠屋などに賃貸しする権利がついていました。

この天保14年の調べでは、蒲団などの賃貸しを行う損料屋が8軒記録されていて、独立の業種となっています。

これは質屋から損料屋が主になったためか、損料貸しの権利が天保の改革で開放されたのではないかとされていますがこのためであるのかは判明していません。

このほかに生活必需品を商う店も、米屋をはじめ酒屋・八百屋・肴屋・菓子屋・豆腐屋・荒物屋・薬屋・炭屋と多彩で、寿司屋・蕎麦屋・うなぎ屋・惣菜屋・タバコ屋と揃っていて江戸市中と変わりませんでした。

 

多種にわたる商いの中で、品川宿の米屋についてその様子を見てみましょう。

江戸の庶民が主食として白米を食べることが一般的になってきたのは江戸中期頃からといわれています。

品川宿の米屋は、天保14年の調べでは25軒ありました。

米屋は、問屋から玄米を仕入れて白米にして小売りすることを業とする舂米屋(つきごめや)と、舂屋(米舂屋)という、近在の家に玄米を舂きに行く米舂人足の口入れを行うものに分けられます。

両者は本来別の業種ですが兼業する者が多かったようです。

舂屋を専門にするものの数は判明しませんが、文化8年(1811)の記録では南品川の寺社門前町屋には少なくとも4人の舂屋があったということです。

 

品川宿の米屋が商う玄米が、すべて御府内の問屋からの仕入れになったのは文政13年(1830)以降のことで、それまでは近在から海上や陸上を運ばれてくる米を直接買って小売りすることができました。

しかし、御府内の芝金杉の問屋から、入荷が減少し問屋が立ち行かなくなるので直接買うのはやめてほしいと訴えが出、この年に和解が成立しました。

この結果、千住宿や内藤新宿などと同様品川宿でも、米の仕入れはすべて、江戸市中に散在し関東・奥州の米を引き受けた「地廻り米穀問屋」から、ということになったのです。

 

※「地廻り米穀問屋」の「地廻り」とは、上方から江戸へ送られてくる商品を「下り荷物」といったのに対して、江戸近国から江戸へ入る荷物を「地廻り荷物」といったことからこの名があります。

 

品川宿24
「東海道品川宿宿並模型」(品川歴史館:蔵)より
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