東海道品川宿のはなし 第23回

更新日:平成20年12月15日

冨士講は富士山を信仰する団体です。

戦国時代の終わり頃に、角行(かくぎょう)という人が冨士講の教義を確立したといわれています。

その後、江戸時代の中ごろに伊勢出身の食行身禄(じきぎょうみろく)という人物と江戸の村上光清という人物が同じ頃に出て冨士講を盛んにしました。

食行身禄の身禄派と村上光清の村上派(光清派ともいう)の冨士講が江戸を中心に、富士山の見える関東一円とその周辺の地域に広まり、江戸の市中には江戸八百八講といわれるくらいに数多くの冨士講が結成されました。

 

冨士講が盛大になったきっかけは、食行身禄が富士山の烏帽子岩で、31日間の断食行を行い、入定、すなわち食べ物を断って、水で口をしめらすのみで自らの死をむかえることを宣言し、31日目の享保18年(1733)7月13日、そのとおり入定を果たしたことでした。

これが人々の関心を集めたのです。これに対して村上光清は、翌年富士山をご神体とする富士浅間神社の社殿造営を発願し、その規模を拡大して元文3年(1738)に壮大な社殿を竣工させ、人々の賞賛を浴びたのです。

この二派の勢力分野では身禄派が優勢で、品川区内の冨士講は、いずれも身禄派に属していました。

 

このようにして成立した冨士講は、幕府の徹底した禁令にもかかわらず庶民の社会に浸透し、信仰のほかに親睦や娯楽も兼ねた団体として各地域に結成されていったのです。

品川区域の冨士講は、身禄派の丸嘉講(まるかこう)と山清講(やませいこう)があり、品川宿では丸嘉講が中心で、大井御林浦猟師町・居木橋村では山清講という講社がありました。

 

身禄の信仰を継承する冨士講の特色のひとつに、富士塚の築造があります。

富士塚は人工の富士山で、富士信仰として富士山の神(仙元大菩薩(せんげんだいぼさつ))を祀るとともに、中腹に小御嶽石尊大権現(こみたけせきそんだいごんげん)を祀る祠を建て、身禄入定の場所に石を置き、富士山の熔岩を張りつけて現地の感じをだしたのです。

富士塚は富士山を遙拝することと、その富士山への模擬登山の場でした。

東京23区内で江戸時代に築造された富士塚の数は20もあったといいます。

 

現在、品川神社境内にある富士塚は明治2年(1869)に品川丸嘉講社の講中300人余りによって築造されたものです。

俗に「品川富士」と呼ばれています。

かつては江戸中に冨士講が存在していましたが、現在は衰微し、わずかな講中によって継承されているにすぎません。

品川区内においては品川宿の冨士講「品川丸嘉講社」によって、今も守り継がれています。

主な行事は、7月1日の品川富士山開き行事と8月の富士登山で、かつては、ほかに「月拝み」や「冬至拝み」「お焚きあげ」などがありました。

 

現在、行われている山開き行事は、7月1日に近い休日に浅間神社に講中が集まり、祭具類を並べた祭壇が2カ所しつらえられます。

午後、行衣を着た数人の講員を中心に社殿内で冨士講の教義「お伝え」を唱える祭事を行い、行衣姿の講員を先頭に品川富士に登山し、頂上および中腹に祀る小御嶽の2カ所で「お伝え」を唱えて、浅間神社に戻るものです。

また、8月には実際の富士登山も行われています。

この「品川神社富士塚山開き行事」は品川区の無形民俗文化財に、「品川神社富士塚」は品川区の有形民俗文化財に、それぞれ指定されています。

 

品川宿29
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