東海道品川宿のはなし 第32回

更新日:平成20年12月15日

4月、桜の花満開のころ、花鎮 (はなしずめ)の祭が行われます。

有名なのは京都今宮神社の「やすらい祭」で、散りゆく花に悪霊がはびこるとされるため、花鎮の祭を行い、疫病(伝染病)の流行を鎮める祈りをこめて行われるものです。

江戸の庶民がもっとも恐れたのは疫病(流行病 (はやりやまい))でした。

高い死亡率を示していたのは、疱瘡(天然痘)・麻疹 (はしか)・インフルエンザ・コレラ・労咳 (ろうがい)(結核)であり、飢饉の前後に流行る傷寒(腸チフス)・痢病(赤痢)も多くの人たちの生命をうばう原因となっていました。

この中で幕末に大流行したコレラについてお話しましょう。

 

コレラは症状が急速に悪化して死にいたるため、「三日虎狼痢 (みっかころり)」などと呼ばれたいそう恐れられたのです。

日本に初めて「コレラ」が侵入したのは、文政5年(1822)のことでしたが、この時は西日本での流行にとどまり、江戸までは達しませんでした。

その36年後の安政5年(1858)、長崎に上陸したコレラは東に蔓延して、7月末には江戸に侵入し、8月にはいると江戸とその近郊での病勢は激甚をきわめたのでした。

その流行期間は1ヶ月余りで、この「安政のコレラ」は、江戸での死者20万人余りとも伝えられ、江戸最大の災害といわれています。

 

この「安政のコレラ」の流行は、品川宿にも及び、当時の記録によると、この年の8月1日から9月5日までの約1ヶ月間に172人の死者が出たとあります。

その内訳は、南品川宿39人、北品川宿54人、歩行新宿53人、南品川猟師町26人でした。 

 

品川宿では、このコレラの流行に対して、手当のために生薬の施薬や金子での救済などを行っています。

南品川宿では8月20日から晦日まで、「桑白皮湯 (そうはくひとう)」という煎じ薬を、今の荏原神社で出し、また「霊砂丹 (れいしゃたん)」という薬も出して対応し、きわめて困窮した者に対しては、病人ひとりあたり金1分宛、養生しても治らず亡くなったものに対しては、金2分ずつの救済金を出しています。

 

北品川宿では、南品川宿と同じように金1分から2分の救済金の他に、白米を猟師町の困窮した人たちに差し出しています。

自身番屋前にて「正気散」を煎じての施薬も行われました。

また、歩行新宿では、南北両宿と同様に金1分から2分の救済金が渡されたほか、歩行新宿持の歩行人足 (かちにんそく)に500文ずつ、また、北品川宿同様に猟師町の困窮者に金1分の救済金を支給し、自身番屋前にて「正気散」を煎じて施薬しました。

 

これらの施薬や救済は、品川宿全体で〆て505両2分、白米7石になり、施薬人数は判明しませんが、金子を配布した家数は1800軒を超えたほどでした。

これらの経費は宿内の多くの旅籠屋や裕福な百姓らからの寄附で賄われたのです。

もっとも、当時の生薬を煎じた施薬では、諸症状を和らげることはあっても、コレラそのものを治癒させる効き目はありませんでした。

 

このように天保7,8年の飢饉以来、わずか20数年の間に、嘉永5年(1852)の火災、6年のペリー来航による恐慌、安政2年(1855)の江戸大地震、3年の風災、5年のコレラの流行と、文久元年(1861)には米価高騰、など大規模な救済を要する災厄が続いたため宿場が疲弊したことはあきらかで、宿場の備え金を貸すことによって、からくもしのいでいたのです。

 

『虎狼痢治準』

当時の蘭方医・緒方洪庵の著したコレラ治療書。

キニーネや阿片などを用いた西洋医学による治療法を紹介している。

しかし、当時の西洋医学によるコレラ治療法は、東洋医学によるものと同様、効果のないものであった。

品川宿38
・『虎狼痢治準』(複製)

(品川歴史館:蔵)

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