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東海道品川宿のはなし 第35回
更新日:平成20年12月15日
慶応元年(1865)5月16日、将軍家茂は長州再征のために江戸をたちました。長州征討の勅許を得るためで、いわゆる「御進発」です。
この時も将軍家茂は、2年前の上洛の際と同様に品川・東海寺で昼食の休息をとっています。
しかし家茂は、諸問題の解決をみないまま、同2年(1866)7月20日大坂城で死去してしまったのです。
慶応2年(1866)、物価の高騰によって生活が極度に逼迫した江戸庶民の不満は爆発しました。
品川宿の窮民達が商家を襲撃したことから始まった打ち壊しは、江戸市中へと拡がり、さらには江戸ばかりか武州から上州にかけて一揆がひろがっていったのです。
こうした江戸での情勢とあいまって、幕府にとって大きな痛手となったのは、7月に将軍家茂が大坂城で死去したことだったのですが、あとを継ぐ慶喜は容易に将軍職につかず、将軍となったのは12月になってからでした。
朝廷と幕府間の調整は続けられていたものの、ついに成果を見ることはなく、土佐藩は慶応3年(1867)10月3日、15代将軍慶喜に大政奉還の建白書を提出しました。
同14日、幕府は大政奉還を願い出て、翌日、朝廷は要請を受け入れ、大政奉還となったのです。
そのころの江戸では薩摩浪士の狼藉がはびこり、これを憎んだ幕府軍による薩摩藩邸焼き討ちによって追われた浪士らが、逃げながら家々に放火していったあと、南品川宿は焼土と化していました。
慶応4年(1868)正月、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗れ、慶喜らは大坂城を脱出して海路江戸へ帰ったのです。
徳川慶喜追討の命が下り、有栖川宮熾仁親王 (ありすがわのみやたるひとしんのう)を征東大総督とする軍が発せられました。
東征軍は左肩に錦切 (きんぎれ)をつけ進軍したといいます。
この東征軍先鋒隊が品川宿に入ったのは慶応4年3月12日のことでした。
江戸の出入り口、とりわけ品川宿の混乱はさぞ激しかったものと推察できます。
南品川宿は薩摩浪士の放火によって大きな焼失の痛手を負っていたうえ、さらに東征軍が品川に来るというのを聞いて、焼け残った歩行新宿 (かちしんしゅく)や北品川宿では家財道具を親類縁者に預ける「疎開」さわぎも起こっていました。
また、品川宿では、薩摩浪士に家を焼かれたりしたことなどから、新政府に対する反感は思いのほか強かったため、先鋒の橋本実梁 (はしもとさねやな)はにわかに本営を池上本門寺に定め、別方面からの東征軍の到着を待つことにしました。
そして数日後、東山道(中山道)から板橋宿、甲州道中から内藤新宿、奥州道中から千住へと、それぞれの方面からの軍が到着し、江戸を取り囲んだのですが、西郷隆盛と勝海舟が三田薩摩屋敷で会見した結果、江戸城は明け渡しとなり、東征軍の江戸進撃は中止されました。
しかしながら、4月の江戸城開城後に彰義隊が政府軍と衝突、さらに慶喜の水戸退去後も上野の寛永寺に立てこもり抵抗を続けましたが5月15日、壊滅しました。
これら彰義隊と東征軍の戦いの中、品川周辺でも江戸市中と同様、彰義隊兵士への同情・同感を行動でしめす現象はみられたといわれています。
さて、ご覧いただきました「東海道品川宿のはなし」シリーズは、今回で終了です。
長いあいだありがとうございました。
次回からは近代編として「明治維新後の品川」というシリーズでお送りしますのでご期待ください。
・山内豊信(容堂)墓(東大井4-8)
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