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東海道品川宿のはなし 第13回

更新日:2012年8月7日

旧中原街道の道筋

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中原街道は江戸城の虎ノ門から相模国(今の神奈川県)平塚郊外の中原に通じる街道で、相州街道または小杉道とも呼ばれていました。

品川区内では東五反田の桜田通りから西五反田・平塚橋・旗の台を通り、大田区に入って洗足池方向に向い、丸子の渡し(今の丸子橋付近)で多摩川を越す道筋です。現在は広い道幅ですが江戸時代の中原街道の道幅は3間(約5.5メートル)ほどでした。

江戸時代の中原街道の道筋は、現在でも西五反田六丁目から荏原二丁目にかけてと、旗の台二丁目付近にその一部が残っています。

 

中原街道は、東海道が整備されるまでは主要道路でした。

徳川家康がたびたび利用し、慶長13年(1608)に小杉(神奈川県川崎市)と中原(神奈川県平塚市)に御殿が設けられました。

この御殿は将軍の巡遊や鷹狩の休息や宿泊に使われていたのですが、これには幕府の代官陣屋が併設されており地方支配の拠点ととしての機能も果たしていました。

中延村の中ほどにあったといわれる高札場の跡

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しかし東海道が幹線として整備されていくのに伴って、しだいに交通量は減少し、小杉御殿は明暦元年(1655)に、中原御殿も1657年に引き払われ、その役割も幹線道路から脇往還(脇街道)へと変わり、江戸への食糧や資源の供給地とを結ぶ流通路としての役割を果たすようになりました。

中原街道は沿道の特産品のなかでも中原で醸造された「酢」の江戸への輸送路に利用されたため「御酢街道」とも言われました。

『目黒筋御場絵図』より

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このように中原街道は東海道などの五街道と異なり脇往還であったため、五街道のような宿場は置かれずに、主に荷物の運搬をになう「継立場」が小杉・佐江戸・瀬谷・用田の4か村に置かれていました。

このほかに品川区内の上大崎村にも継立場があったという記録もありますが臨時的なものと考えられています。

 

江戸時代の紀行文などから中原街道沿いの様子をみると「目黒川を渡ると目黒道と交差する付近には水茶屋が二軒あり、戸越村にかかると道の左右の木立の間にところどころに民家がある、中延村には商売を兼ねた民家が道沿いにあった」といい、街道筋の民家は商店を兼ねていて、街道を行き来する人々を相手に暮らしをしていた様子が窺えます。

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