東海道品川宿のはなし 第26回

更新日:平成20年12月15日

江戸時代、現在の品川区域は中延村の一部を除き天領でした。

天領とは徳川幕府の直接治める土地をいいます。

天領の年貢米は御城米 (ごじょうまい)と呼ばれ、隅田川河畔にあった幕府の浅草御蔵(御米蔵)に納めることが義務づけられていました。

ただ、品川区域の宿や村のなかで、歩行新宿 (かちしんしゅく)だけは屋敷地ばかりで田畑がなかったので、米で年貢を納めることはありませんでした。

 

品川区域からの年貢米を浅草御蔵に納めるには、大井村は浜川町の河岸から、その他の宿や村は南品川宿河岸から船積みにして、海上約2里半(約1km)の輸送でした。

もよりの河岸(物揚場)から船で積み出すことを、一般に「津出 (つだし)」と呼んでいました。

津出の場所であった南品川宿河岸の場所は、目黒川に架かる境橋(今の品川橋)より少し下流の南岸で、俗に百足河岸と呼ばれていたところです。

 

品川区域の宿や村から南品川宿河岸へ年貢米を運び込む手段は、中延村・小山村・谷山村の3つの村については記録がなくよくわかりませんが、下大崎村だけは目黒川の水運を利用していたようです。

満潮の時に限り、大崎橋までは目黒川を小舟でさかのぼることができました。その他の村は馬などを使って運搬していたとされています。

各村や宿から南品川宿河岸までの距離は、南品川宿名主文書によると、上大崎村は23町、桐ヶ谷村・戸越村・上蛇窪村が約20町、居木橋村・下蛇窪村が18町、二日五日市村が4町、北品川宿が2町でした。

船積みする河岸までの運搬賃(駄賃)は、天領の宿や村では、その距離が5里以上の場合、1里につき1駄(2俵)24文ずつの駄賃が代官から支払われることになっていたのですが、品川区域の宿や村は5里以内なので、駄賃はすべて農民が負担しなければなりませんでした。

 

品川区域の宿や村から年貢米を運んできたものは、南品川宿河岸で年貢米を船積みすると御蔵納入を引き受けた納人(浅草御蔵への米を納める責任者)から仮手形を発行してもらいました。

この米が浅草御蔵に滞りなく納められると、掛の役人から納入の手形が出され、これを先にもらっていた仮手形と引き替えることになっていたのです。

この船には、村のしっかりした人物から選ばれた「上乗 (うわのり)」という船中監視役の者が乗り、納め人は船には乗らず、陸路浅草御蔵に行って船が着くのを待ち、船が着くと直ちに代官屋敷(馬喰町)に着船届けを出しました。

届けを受けた代官屋敷では、御蔵奉行に通知して船入堀の水門を開かせ、年貢米を水揚げして蔵前に積み立てさせました。

納め人は、これに立会い、員数を確認し、御蔵奉行の検査を受けて間違いがなければ証拠の手形をもらって帰ったのです。

 

こうして年貢米を南品川宿河岸から津出していたのですが、品川区域での米作も文政年間(1818~1830)には、品川用水があるとはいえ玉川上水からの分水を制限され、水不足と旱魃になやまされた結果、自らの村でとれる米の質が悪くなり、年貢米にはできないという窮地に陥ったのです。

このような状況から、村でとれる米の代わりとして江戸で米を買い入れて上納する「買納」が許されることになりましたが、実際は米ではなく、金貨や銭での納入でした。

また、「買納」は本来臨時的措置として認められたものだったのですが、幕末まで継続して行われており、年貢米の南品川宿河岸からの津出は文政の初年に中止され、その後行われることはなかったと推定されています。

 

品川宿32
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