東海道品川宿のはなし 第29回

更新日:平成20年12月15日

品川にはじまった海苔養殖は、江戸時代中期以降、しだいに産地がひろがり、19世紀初頭には、大井村・大森村・糀谷 (こうじや)村そして羽田村にも及び、江戸内湾の対岸、上総国(千葉県)にも普及していきました。

宝暦7年(1757)当時の記録によると、現在の品川区域には海苔養殖を稼ぎにしていた家は281軒あり、843人が従事していたと記されています。

海苔養殖業は1軒あたり3人の労働力で営まれていました。

この頃、海苔ひびを立てていたのは24箇所だったのですが、約50年後の文化10年(1813)になりますと145箇所に増え、海苔養殖業が急速に発展したことがわかります。

 

ここからは、海苔にかかわるなかで養殖された海苔の販売についてお話しましょう。

養殖海苔は毎年11月末より採り始め、その後2週間ごとに3月まで採集していました。

品質は、4期に分けられる採集時期により異なりましたが、最高とされたのは大寒のころの寒海苔でした。

養殖海苔は、生海苔のまま販売されることもありますが、大部分は干海苔にして販売されました。

生海苔1升で干海苔11~12枚になったといいます。

宝暦7年の記録によると、南品川宿ほか3か村の干海苔は、浅草並木町の問屋四郎左衛門に売り渡し、100文につき2文の世話代を支払っていました。

このように問屋に直接売り渡すほか、仲買(中買)のものへも売り、東海道の往還ばたの店先でも販売していました。

 

海苔を仲買へ売り渡す方法は、江戸時代については記録が残っていませんが、明治期には仲買の主人や番頭が各家を回り、できあがった海苔をみて値を付けて入札し、次の家に行くという庭先入札の方式によっていました。

大正時代にあった仲買は4軒程度で、南品川猟師町で庭先入札に加わることができるのは品川宿の仲買人に限られており、他の地域の仲買は参加できないしきたりでした。

昭和にはいって仲買の数は増え、仲買の集めた海苔は日本橋の山本、山形屋などの海苔問屋に売り渡されたのです。

 

つぎに、海苔の販売にかかわる信州諏訪と品川周辺の海苔屋さんとの関係をお話しましょう。

信州諏訪の人たちは、冬の農間稼ぎの一つとして、品川や大森の海苔屋さんに奉公をしたり、海苔の行商に励んでいました。

諏訪は「諏訪の寒天」として、地域の気象条件である低温を利用して天草からつくる棒寒天が知られていますが、この棒寒天を行商するさい、海苔をあわせて商うことはめずらしくありませんでした。

彼らは嘉永5年(1852)に故郷の諏訪大社上社に稼ぎを感謝するため「太々御神楽」 (だいだいおかぐら)を奉納すると決め、その資金援助を出稼ぎ先の品川や大森の海苔屋さんや有力者に求めたのです。

そして奉納を記録するために神楽殿に扁額 (へんがく)をかかげました。額の面には出稼ぎの人たちの願いに賛同した品川や大森の寄付者の名前が刻まれています。

また、明治16年(1884)にも、太々御神楽の執行と扁額の奉納が行われています。

この扁額の絵は幕末から明治初期にかけて活躍した漆絵画家、柴田是真 (しばたぜしん)の作品で、お台場を描き、東京内湾の海苔作業の様子を描いています。

額の面には嘉永5年のものと同様に、品川・大森を中心とした寄付者の名前が記されています。

この奉納扁額は大正10年(1921)に東京の海苔問屋の寄付を得て、衝立 (ついたて)に作り変えられています。

 

品川宿351品川宿352
◆左から

・『大森守半海苔店かけ紙』(品川歴史館:蔵)

・『山形屋海苔店かけ紙』(品川歴史館:蔵)

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