明治維新後の品川 第2回

更新日:平成20年12月15日

慶応4年(1868)5月19日、鎮台府が置かれてから、旧江戸府内については南北町奉行所の代わりに設置された南北市政裁判所によって治められることになりました。

ところで品川宿など江戸周辺の旧代官支配地は、どのように変わったのでしょう?

 

江戸周辺の代官支配地は3人の代官が分担して治めていました。

維新後、この代官を新政府は武蔵知県事 (むさしちけんじ)としましたが、これは武蔵県が置かれたということではなく、3人の代官をこのように呼んだだけだといわれています。

 

旧代官の武蔵知県事は山田政則・松村忠四郎・桑山効の3人で、品川周辺を支配したのは松村忠四郎でした。

そして太政官布達 (だじょうかんふたつ)によって、明治元年(1868)11月5日から3人の支配地に、大宮県(のち浦和県)・品川県・小菅県を設けるよう、準備を命じました。

実際に設置されたのは、小菅県が翌年1月13日、大宮県が1月28日、品川県は2月9日となっています。

この3県のなかで品川区域が入る品川県の範囲は、支配の入り組みはあるものの、概ね東京の南西部、今の品川・港・大田・世田谷・目黒・渋谷・新宿・中野・練馬・杉並の各区から、多摩地区の武蔵野・三鷹・狛江・西東京・調布・府中・国分寺などの各市、神奈川県では横浜市・川崎市のほか埼玉県の一部も入るという、広大なものでした。

 

明治2年(1869)2月に設置された品川県は、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県によって無くなり、品川県に属していた宿村のうち、荏原郡85ヵ村、豊島郡のうち26ヵ村、多摩郡のうち55ヵ村が東京府に編入されたのです。

このうちの一部の村々では、中野村(今の中野区の一部)のように、いったん神奈川県に編入されながら、その後東京府に再編入になるなど、再編成が終了するまでにさまざまな経過をたどるところもあったようです。

現在の品川区域を構成する品川宿とその周辺の村々では、東京府への編入は抵抗なく実施されました。

 

品川県庁は日本橋浜町河岸近くに品川県事務所を設けて臨時の県庁の役割を果たしていました。

県庁は、北品川の東海寺を県庁舎にしようとしたと伝えられていますが、品川県は、できてから無くなるまで、約2年半という短期間であったため、その完成を見ぬ間に県そのものが廃止されてしまったのです。

 

さて、このように短期間しか存在しなかったため、県の仕事で特色を示すまでには至らなかったのですが、大きな事件が1件起きています。

品川県がスタートする4日前の明治2年2月5日、知県事の職務が定められました。

主なものは、「平年の租税の高を量り、年間の経費を定めること」「議事の法を立てること」「戸籍を編製すること」「地図を作製すること」「凶荒を予防すること」「賞典を挙げること」「窮民を救うこと」「風俗を正すこと」「小学校を設けること」「地方の振興をはかること」「商業を盛んにして漸次税金をとること」「租税制度を改正すること」などです。

これらには、特に問題はなかったのですが、「凶荒予防対策」としての備荒貯蓄という、江戸時代から行われていた囲米 (かこいまい)とか社倉 (しゃそう)とよばれていた制度の実施にむけて、明治2年8月、品川県知事に就任した古賀一平のとった態度が物議をかもしたのです。

 

旧来おこなわれていた囲米は出資した人たちに管理運用が任されていたものだったのですが、品川県になってからは、村人の手をはなれ、半強制的な命令で一括して役所に集め、品川県の命令で出すということになったのです。

このため農民は税金の上に税金といった感じをいだいてしまい、多くの村は仕方なく供出したのが実情でした。

ところが、武蔵野新田の12ヵ村と田無新田では凶作が加わり大きな負担となったため、農民たちはこの窮状を訴えようと、歎願にとどまらず直訴を計画したのですが村役人の反対などで実現しませんでした。

そのため、明治3年1月10日、県庁への門訴という方法をとったのです。

門訴とは、県庁の門の中には入らず門の外で訴えるもので、それならば罰せられないことになっていました。(門の中に入れば強訴となり、罰せられます) 

ところが県庁側は、門の前で訴えていた農民に対し騎馬や鉄砲で脅すという手段をとり、農民は四散したものの県庁側にも怪我人が出たため、首謀者を割り出したい官憲の追及は苛烈を極め、取り調べは牢死するものが出るほど過酷なものでした。

村役人への処罰も厳しいものでした。こうして「門訴事件」は、武蔵野新田では多くの犠牲者を出して熄 (や)むことになりましたが、結果としては農民側の出穀高に近いところで解決したのです。

 

ところで、この貯穀代が後になって新しい教育制度の発足に当たって、一部小学校の建設に使われたという点は注目されます。

品川区域では、杜松学校のほか品川学校・桐渓学校・中山学校・城南学校・大井学校の設立経費や学校運営費に使われた記録が残っています。

このほか、品川県では、授産事業として麦酒 (ビール)製造を試みたのですが、この話は別の回にとりあげる予定です。

 

明治2
・品川県印影
お問い合わせ

庶務課 文化財係 電話:03-5742-6839(直)  FAX:03-5742-6890