大正時代の品川 第1回
更新日:平成20年12月15日
品川区域における近代工場の設立時期は、明治5年頃で、当時流行の先端をいく煉瓦工場 (れんがこうじょう)が、御殿山下で蒸気を利用した新しい機械を使って、操業を始めたとあります。
また翌、明治6年(1873)、現在の北品川・東海寺大山墓地に近い目黒川べりにガラス製造の興業社 (こうぎょうしゃ)(後の官営品川硝子 (がらす)製造所)が設立されました。
その後大正時代にかけて、目黒川沿いに工場の建設が相次ぎ、京浜工業地帯発祥の地となったのです。
明治時代、日清・日露の両戦争を経て、東京への人口集中が急速に進みました。
明治30年代には、東京市の南端にあたる品川町 (しながわまち)の人口が増えたのですが、明治40年代にはいると、市街の先端は大崎町 (おおさきまち)・大井町へ延びていき、この傾向は第一次世界大戦中(大正3~7年・1914~18)の経済的繁栄のなかで一層強まっていきました。
明治後半から大正期にかけて、品川区域の町別 (まちべつ)人口の増加率をみますと、明治42年(1909)を100とすると、10年後の大正7年(1918)には、品川町192、大崎町268、大井町178、平塚村 (ひらつかむら)199という数字になります。
いかに急激な人口増加があったかがわかると思います。
この人口増加の主な要因はいうまでもなく、この地域の工業の発展にありました。
大正7年時点で、各工場の操業開始年次をみますと、日清戦争後から明治末年に至る時期と、第一次世界大戦中の大正6,7年の2つの時期に集中しています。
特に、第一次世界大戦中の工場設立には、大きな特徴が2つあげられます。
第一は、機械器具・化学・金属が中心になっていること。
第二に、100人以上の職工を雇用する比較的規模の大きい工場の約3分の1が大正5~7年までの間に創設されているということです。
こうした傾向は日本の資本主義の発展とぴったり一致します。
こうしたなかで、特に顕著な変化をみせたのが、大崎町でした。
大崎町の人口の増加率は、わずか10年間に2.7倍にもなったのですが、これは目黒川沿岸への工場の進出が主な要因で、ことに大正7年(1918)以降の工場の創設が目立っています。
大正7年末の調査から大崎町にある工場の約6割が大正5年以降の創業であったことがわかります。
大正期に大崎町で創業もしくは東京市内から移転してきた主な工場をあげると、大正2年の明電舎 (めいでんしゃ)(機械工業)、大正4年の園池製作所 (そのいけせいさくしょ)(工具)、大正5年の高砂工業 (たかさごこうぎょう)(のち高砂鐵工 (たかさごてっこう))、大正3年に操業を開始し、同6年に本社を移転してきた軸受製造の日本精工 (にっぽんせいこう)、そのほか星製薬(星製薬は明治44年創業、大正期に工場を増設)などがあります。
このほか、森永製菓の工場もこのころ建設されました。
目黒川に架かる居木橋の上流に森永橋がありますが、森永製菓の工場に因んでつけられたものです。
このように急激に発展した大崎町ですが、大正12,3年を境にこの地域の都市化も一応完了し、昭和期に入ると人口の停滞傾向がでてきました。
工場建設も飽和状態になったのでしょう。
昭和7年(1932)、品川区・荏原区誕生の直前に書かれた東京市広報「新東京プロフィル」には、当時の大崎駅周辺の印象を「品川町から隣の大崎町に入ると、いきなり耳がガァンとなる。街自体が巨大な楽器のように、我鳴り (がなり)たてている。低地の大小無数の工場からわき起こる音響がワァンと空に響く。近代工場の奏 (かな)でる力強いリズムだ。大崎町は工場街だ。・・・・」と記されています。
こうした大崎駅周辺の工場街も、今は大崎ニューシティ・ゲートシティ大崎といった再開発ビルとなり、大崎駅を含めてその様相は一変しましたが、現在も再開発は進められ、まだまだ大きく変わろうとしています。
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