江戸時代の道 第2回

更新日:平成20年12月15日

今回は、現在も一部残っている「品川道 (しながわみち)」について見てみましょう。

府中市内の東府中駅付近から白糸台にかけて、また、調布市の飛田給 (とびたきゅう)から上石原・下石原・布田・国領・菊野台にかけて「品川街道」「品川通り」「品川道」と呼ばれている道が残っています。

品川から離れた所に、何故「品川」の名前が付いているのか驚かれるでしょうが、やはり品川を目指して行き来をしていたのです。 

この府中、調布に残る「品川道」は現在でも、大國魂神社 (おおくにたまじんじゃ)の祭礼に先だって行われる「汐汲 (しおく)み・お浜降り」行事のため利用されています。

毎年5月5日に行われる大國魂神社の祭礼は「くらやみ祭り」と呼ばれ、4月30日に行われる「お浜降り」行事に始まります。

「お浜降り」行事は、「品川海上禊祓式 (しながわかいじょうみそぎはらえしき)」といい、神職および役所が荏原神社わきの目黒川から注連縄 (しめなわ)を張った船を漕ぎ出し、お台場をすぎたあたりで禊 (みそぎ)(口や手を海水で清める)をしたあと、長柄の柄杓で汐水を汲み上げ、樽に入れて持ち帰り、この汐水で大祭中、禊ぎをするというものです。  

「汐汲み・お浜降り」行事の起源は、康平5年(1062)源頼義、義家親子が安倍貞任を討つために奥州へ遠征した時に、品川の海から海水を汲んできて府中明神に戦勝を祈願したのが始まりとされています。

江戸時代には、毎年4月25日に神官、神馬の一行が早朝、府中を立ち、現在の荏原神社に来て、天王洲の海で禊ぎをして汐を汲み、その日のうちに府中に戻っています。 

それでは府中から品川まで、どのような道筋を通っていたのか、大国魂神社の神主の日記「六所宮神主日記」から推測してみましょう。 

安永8年(1779)4月25日に、府中を発って、「金子」「馬引沢」「目黒」で休息しながら品川宿に着いたと書いてあります。

「金子」は現在の調布市西つつじが丘付近、「馬引沢」は世田谷区の上馬、下馬付近、目黒は目黒不動ですから、府中から甲州街道を通って調布へ、そこから豪徳寺付近を抜け、品川用水路沿いに目黒区に入り、目黒不動門前の茶屋で休み、氷川神社、安楽寺の前を通って目黒川に沿って下り、居木橋の付近から南馬場に抜けて、荏原神社へというルートが、大國魂神社の祭礼の「品川道」の道筋ではないかと考えられます。  

また、この品川道は、筏 (いかだ)乗り達が、(多摩の)材木を筏にして、多摩川の上流から河口まで運び、材木を引き渡した後、帰り道として利用したことから「いかだ道」とも呼ばれていました。調布市内の旧品川道の案内標識には「旧品川道(いかだ道)」と併記されています。  

「品川道」が記録として残っているのは、江戸時代以降ですが、平安末期から室町時代にかけて焼かれた常滑焼 (とこなめやき)(愛知県常滑市)の大甕 (おおかめ)が、品川の御殿山をはじめ、大國魂神社に近い国府とされる地など多摩地区から出土しています。

このことからも、品川と府中の関係は古くからあったのではないでしょうか。

そして現在も残っている品川通りは、甲州街道の抜け道として利用され、その道を縫うように「品川道」が残されています。

次回は、江戸時代の道 第3回 -目黒道(その1) 目黒不動尊への参詣の道-をお送りします。

 

江戸時代2
・品川の古道より 大國魂神社「お浜降り」行事
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