品川の大名屋敷 第1回

更新日:平成20年12月15日

徳川家康が政治の実権を持つようになると、有力大名は自ら親族を証人(人質)として江戸に住まわせるようになります。

これが江戸の大名屋敷の始まりですが、その後、寛永12年(1635年)に外様大名、寛永19年(1642年)になると譜代大名にも参勤交代を義務付けていきます。

各大名は、江戸と国許を通常1年おきに往復し、江戸のまちづくりや幕府の儀式に参加するなどの役割を担わされました。

大名屋敷には、大きく分けて、幕府から土地および屋敷を無償であたえられた「拝領 (はいりょう)屋敷」と、郊外の農地を買い取ったり、借り上げて屋敷をつくる「抱屋敷」とがありました。

抱屋敷は農民丸抱えという意味もあり、抱屋敷が建てられた土地にはそれまで通り年貢や諸役が課せられていたので、藩がその土地の所属する村に諸役を納めていました。

また、拝領屋敷を交換して自分の欲しい屋敷を手に入れる「相対替 (あいたいがえ)」も行われました。

拝領屋敷は本来、幕府のものですから、売買は禁止されていたのですが、あくまで原則で、さまざまな形で金銭が存在していました。

大名屋敷は、屋敷の使われ方よって「上屋敷」、「中屋敷」、「下屋敷」に分けられます。

「上屋敷」は藩主の住むところで、家臣の住む長屋はもちろん、学問所、武道場などもありました。

「中屋敷」は、上屋敷が火災などに遭ったときの予備邸であり、手狭のときには藩主の家族が住んだり、嗣子(藩主となる子)が住む役割もありました。

「下屋敷」は、国許からの物資の荷揚げ、保管、他の藩邸への食糧・建築資材などの供給、そして藩主家族の別邸、遊興の場所という機能がありました。

大名屋敷にとって大きな転換期となったのが、明暦3年(1657年)正月の「明暦の大火」でした。

江戸城内外の大名屋敷、江戸800町を焼きつくし、江戸を壊滅的な状態にしました。

これを機に、幕府は、大名屋敷などの大規模な建物を江戸城周縁部に移転させ、町人地を拡大し、広小路や火除け地などの防火地帯をつくるといった江戸城の防火対策にも着手しました。

「上屋敷」は、江戸城にもっとも近い西ノ丸下・大名小路・外桜田付近に、「中屋敷」は、江戸城外堀の内側に、「下屋敷」は、江戸の外縁に多く建てさせました。

このことによって江戸城からの距離で上・中・下の屋敷を区分する体制が確立されましたが、大名屋敷の用語は、法令などで明確に定義されたものではなかったため、幕府の役人でさえ、しばしば混乱して用いていました。

さて、品川区内の大名屋敷ですが、幕末の安政3年(1856)の時点でみますと27もの大名屋敷が存在していました。

上屋敷は1ヵ所で、播磨国三日月藩 (はりまのくにみかづきはん)・森伊豆守俊滋 (もりいずのかみとししげ)の屋敷、中屋敷も1ヵ所で陸奥国弘前藩 (むつのくにひろさきはん)・津軽越中守順承 (つがるえっちゅうのかみゆきつぐ)の屋敷で、残りの25の藩は下屋敷もしくは抱屋敷でした。

品川という東海道に近い場所がら、仙台藩伊達家や弘前藩津軽家など数藩を除いて、参勤に東海道を利用する大名がほとんどでした。

海が見える高台に位置しており、別邸の性格を持つ屋敷が多かったといえます。

次回は、品川の大名屋敷 第2回 仙台藩伊達家 (せんだいはんだてけ)下屋敷と味噌をお送りします。

 

品川大名屋敷1
・細川家戸越屋敷模型(部分)
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