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品川の大名屋敷 第13回

更新日:2012年12月6日

三日月藩主(みかづきはんしゅ)森家(もりけ)上屋敷−品川で唯一の上屋敷−

品川区域にあった大名屋敷のなかで、唯一の上屋敷が、播磨国(はりまのくに)(兵庫県)三日月藩主・森家の屋敷(藩邸)でした。

場所は、山手線目黒駅近くの花房山通(はなぶさやまどお)りに面した品川区上大崎三丁目の1番、10番〜12番付近にあたります。

上屋敷は江戸本邸としての役割をもち、藩主や家族が居住していたところです。

森家は、戦国時代、織田信長の下で活躍した外様(とざま)大名で、その一族には本能寺の変で討ち死にした森蘭丸(らんまる)もいます。

三日月藩の藩祖 長俊(ながとし)は、美作国(みまさかのくに)津山藩(つやまはん)(岡山県津山市)18万石の2代藩主 長継(ながつぐ)の5男として生まれ、延宝(えんぽう)4年(1676)、父から1万5000石を分与されました。

さらに貞享(じょうきょう)元年(1684)には、津山新田藩(つやましんでんはん)として正式に大名として取り立てられます。

しかし、元禄(げんろく)10年(1697)、本家の改易(かいえき)に伴い、領地を播磨国の3つの郡(佐用郡(さよぐん) 揖西郡(いっさいぐん) 宍粟郡(しそうぐん)の一部)に移されました。

これが三日月藩の起こりで、以後幕末まで同地は森家の領地となります。

改易(かいえき)となった津山藩は、隠居中の2代藩主・森長継(ながつぐ)が、西江原藩(にしえばらはん)2万石で立藩(りっぱん)して、再勤(さいきん)となり、宝永(ほうえい)3年(1706)、西江原藩2代藩主のときに、赤穂藩(あこうはん)に転封(てんぷう)しています。

このときの赤穂藩は元禄(げんろく)14年(1701)の刃傷(にんじょう)事件で取り潰しとなり、浅野家に代わって下野国(しもつけのくに)烏山藩(からすやまはん)永井直敬(ながいなおひろ)が入りましたが、5年で転封となり、その後に森家が赤穂藩に入ったのです。

さて、三日月藩の大崎屋敷ですが、三日月藩というよりも、津山藩森家が、元禄10年(1697)より前に、抱屋敷としてこの地を手に入れました。

その広さは5町4反余(約16300坪)でした。

その後、三日月藩(みかづきはん)が立藩され、享保(きょうほう)3年(1718)に、抱屋敷地のうち3500坪が拝領地(はいりょうち)となりました。

さらに、享保13年には、周辺の井戸新兵衛(いどしんべえ)所有地1町5反余(約4600坪)を譲り受け、抱え地は、約17400坪となり、拝領地とあわせて2万坪を超える広大なものとなったのです。

この広大な大崎屋敷で、初代藩主 長俊(ながとし)は享保20年(1735)に87歳で亡くなり、近くの池上・本行寺(ほんぎょうじ)に葬られました。

この屋敷は三日月(みかづき)藩唯一の江戸屋敷であり、藩の日記には、藩主が屋敷で月見の宴を開くなど、台地の端という土地柄を活かして江戸の生活を楽しんだ記述も見受けられます。

維新後の三日月藩は、明治4年(1871)の廃藩置県により三日月県となり、姫路県(ひめじけん)、飾磨県(しかまけん)を経て兵庫県に編入されました。

明治以降、三日月藩上屋敷のあった一帯は、上大崎村字(あざ)森ヶ崎(もりがさき)という字名(あざめい)がついていました。

この地名は、三日月藩主森家の「森」と周辺の地形が舌状台地(ぜつじょうだいち)であったため、その形を表わす「崎」をつけて「森ヶ崎」になったといわれています。

それにしても、江戸城から遠いこの地に上屋敷をもった森家は、登城(とじょう)の度に苦労していたのではないでしょうか。

次回は、品川の大名屋敷 第14回 大井村の薩摩鹿児島藩島津抱屋敷(さつまかごしまはんしまづかかえやしき)をお送りします。

 

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