品川区 Shinagawa City

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更新日:2009年5月1日

品川の大名屋敷 第13回

三日月(みかづき)藩(はん)主(しゅ)森家(もりけ)上屋敷−品川で唯一の上屋敷−

品川区域にあった大名屋敷のなかで、唯一の上屋敷が、播磨(はりまの)国(くに)(兵庫県)三日月藩主・森家の屋敷(藩邸)でした。場所は、山手線目黒駅近くの花房山通(はなぶさやまどお)りに面した品川区上大崎三丁目の1番、10番〜(から)12番付近にあたります。上屋敷は江戸本邸としての役割をもち、藩主や家族が居住していたところです。

森家は、戦国時代、織田信長の下で活躍した外(と)様(ざま)大名で、その一族には本能寺の変で討ち死にした森蘭(らん)丸(まる)もいます。三日月藩の藩祖 長俊(ながとし)は、美作(みまさか)国(のくに)津山藩(つやまはん)(岡山県津山市)18万石の2代藩主 長継(ながつぐ)の5男として生まれ、延宝(えんぽう)4年(1676)、父から1万5000石を分与されました。さらに貞(じょう)享(きょう)元年(1684)には、津山新田藩(つやましんでんはん)として正式に大名として取り立てられます。しかし、元禄(げんろく)10年(1697)、本家の改易(かいえき)に伴い、領地を播磨(はりま)国(のくに)の3つの郡(佐用郡(さよぐん) 揖西郡(いっさいぐん) 宍粟郡(しそうぐん)の一部)に移されました。これが三日月藩の起こりで、以後幕末まで同地は森家の領地となります。

改易(かいえき)となった津山藩は、隠居中の2代藩主・森長継(もりながつぐ)が、西江原藩(にしえばらはん)2万石で立藩(りっぱん)して、再勤(さいきん)となり、宝(ほう)永(えい)3年(1706)、西江原藩2代藩主のときに、赤穂藩(あこうはん)に転封(てんぷう)しています。このときの赤穂藩は元禄(げんろく)14年(1701)の刃傷(にんじょう)事件で取り潰(つぶ)しとなり、浅野家に代わって下野国(しもつけのくに)烏山藩(からすやまはん)永(なが)井(い)直(なお)敬(ひろ)が入りましたが、5年で転封となり、その後に森家が赤穂藩に入ったのです。

さて、三日月藩の大崎屋敷ですが、三日月藩というよりも、津山藩森家が、元禄10年(1697)より前に、抱屋敷としてこの地を手に入れました。その広さは5町(ちょう)4反(たん)余(あまり)(約16300坪)でした。

その後、三日月藩(みかづきはん)が立藩(りっぱん)され、享保(きょうほう)3年(1718)に、抱屋敷地のうち3,500坪が拝領地(はいりょうち)となりました。さらに、享保13年には、周辺の井戸新兵衛(いどしんべえ)所有地1町(ちょう)5反(たん)余(約4600坪)を譲り受け、抱え地は、約17,400坪となり、拝領地とあわせて2万坪を超える広大なものとなったのです。この広大な大崎屋敷で、初代藩主 長俊(ながとし)は享保20年(1735)に87歳で亡くなり、近くの池上・本行寺(ほんぎょうじ)に葬(ほうむ)られました。この屋敷は三日月(みかづき)藩唯一の江戸屋敷であり、藩の日記には、藩主が屋敷で月見の宴(うたげ)を開くなど、台地の端(はし)という土地柄(とちがら)を活(い)かして江戸の生活を楽しんだ記述も見受けられます。

維新後の三日月藩は、明治4年(1871)の廃藩置県により三日月県となり、姫路県(ひめじけん)、飾磨県(しかまけん)を経て兵庫県に編入されました。

明治以降、三日月藩上屋敷のあった一帯は、上大崎村(かみおおさきむら)字(あざ)森ヶ崎(もりがさき)という字名(あざめい)がついていました。この地名は、三日月藩主森家の「森」と周辺の地形が舌状台地(ぜつじょうだいち)であったため、その形を表わす「崎」をつけて「森ヶ崎」になったといわれています。

それにしても、江戸城から遠いこの地に上屋敷をもった森家は、登城(とじょう)の度に苦労していたのではないでしょうか。

 

次回は、品川の大名屋敷 第14回 大井村の薩摩鹿児島藩島津抱屋敷(さつまかごしまはんしまづかかえやしき)をお送りします。

 

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