品川人物伝 第12回

更新日:平成23年8月4日

品川区在住の文人 江見水蔭

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第12回  平成23年7月1日~7月31日

品川区在住の文人 江見水蔭(えみすいいん)

 

品川人物伝第12回は品川区在住の文人で、明治時代中期から昭和初期にかけて活躍した小説家江見水蔭を紹介します。

 

作家を志すきっかけ

本名、江見忠功(えみただかつ)、明治2年8月12日(1869年)岡山の池田家家臣の家に生まれました。

明治14年(1873年)、12歳で軍人を志して上京、勉学には励まず、小説を読んだり絵を描いたり、寄席や芝居通いに耽ってしまいます。

自ら軍人に向かないことを悟り、やがて作家を志すようになります。

  

称好塾の三文士

16歳の秋、家族は忠功を鍛え直す意味で、教育家であり思想家の杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)の家塾「称好塾(しょうこうじゅく)」に入れましたが、ここで巖谷小波(いわやさざなみ)や大町桂月(おおまちけいげつ)と出会い、「称好塾」の三文士と称されるようになります。

その後、尾崎紅葉らの文学結社「硯友社」の同人としても活躍しました。

江見の作品は、詩歌・俳句・戯曲・冒険小説・紀行文など多岐にわたり、作品数も当時の作家の中で群を抜

いていました。

  

貝塚の発掘

江見が品川に住み始めたのは明治33年(1900年)のことで、品川で何回かの転居があったものの、松山で客死するまで品川で暮らしました。

明治35年(1902年)7月、俳人の谷活東(たにかつとう)と江見が桐ヶ谷の氷川神社に遊びに行った時、谷が畑の中から土器片を採取して江見に見せたことがきっかけで、遺跡の発掘に興味を持ちます。

江見が初めて遺物の採取をしたのは同年9月、大井の権現台貝塚(ごんげんだいかいづか)でした。

元々かなり大規模な貝塚でしたが、多くの採集家によって乱掘され、やがて国鉄大井工場の建設による土砂の切り取り作業や整地のため、完全に遺跡が破壊されてしまいました。

現在では、江見の残した記録(探検実記『地中の秘密』)が唯一のものとなっています。

  

江見水蔭の足跡(そくせき)

江見に対しては、珍品あさりが目的の無秩序な発掘だったとして、乱掘者のイメージが有るため、あまり評価されていませんが、単なる遺物あさりではありませんでした。

明治35年(1902年)11月に東京人類学会に入会し、同会の「東京人類学会雑誌」「人類学雑誌」に、江見に関連する記事や報告が見られます。

文筆家らしく遺跡探訪や発掘の記録を多数残しています。

晩年の江見は講演活動で全国行脚を続け、昭和9年(1934年)11月3日、松山で肺炎を起こし、65歳の生涯を終えました。

 

江見水蔭 

江見邸庭前の石器と水蔭

『行脚全集』第八巻追悼号より

次回のお知らせ

品川人物伝 第13回 高村智恵子(たかむらちえこ) をお送りします。

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