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品川人物伝 第13回

更新日:2012年12月18日

高村 智恵子

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第13回 23年8月1日〜8月31日

高村智恵子(たかむらちえこ)

  

品川人物伝第13回は、高村光太郎(たかむらこうたろう)の妻であり、詩集『智恵子抄(ちえこしょう)』で知られる高村智恵子を紹介します。 

高村智恵子は明治19年(1886年)、福島県安達郡油井村(ゆいむら)(現在の二本松市油井(にほんまつしゆい))に生まれました。

生家の長沼家は新興の造り酒屋で裕福な商家でした。

 

学生時代

明治36年(1903年)、智恵子は創設間もない日本女子大学校に入学、家政学部に籍をおきました。

在学中の智恵子は自転車やテニスに興じることもある反面、口数が少なく孤独を好む性格であったといわれます。

また、絵画 に熱中し始め洋画教室に通うようになりました。

 

高村光太郎との出会い 

明治40年(1907年)、大学を卒業した智恵子は帰郷することなく東京にとどまり、太平洋画会研究所に通い洋画家の道を歩き始めます。

明治44年には、大学の同窓生であった平塚らいてうの頼みを受けて、わが国初の女流文学雑誌『青鞜(せいとう)』の表紙絵を手掛けました。

これをきっかけに青鞜社(せいとうしゃ)の女性たちとの交流がはじまり、智恵子も「新しい女」として世間の注目を集めることとなります。

しかし、目指すべき道が違っていたため、智恵子自身は青鞜社(せいとうしゃ)の社員に名を連ねることはありませんでした。

この頃、詩人であり彫刻家であった高村光太郎と出会います。

大正2年(1913年)、27歳の時に光太郎と婚約、翌年から二人で暮らす生活が始まりましたが、結婚は自由意思であり法的な束縛を受けたくないとの考えから、入籍届はすぐには出されませんでした。

入籍届が出されたのは婚約から20年後の昭和8年(1933年)のことです。

  

結婚後の生活

二人はそれぞれの芸術の道に真摯に向きあっていきますが、理想と現実の間で苦しい生活が続きました。

智恵子は病みがちで、殊に昭和4年(1929年)に実家の長沼家が破産し一家離散の状態になると、健康状態がさら に悪化し、昭和6年には精神疾患の兆候が現れるようになりました。

翌年、自殺未遂を起こし、昭和10年には自宅療養が困難となったため、南品川のゼームス坂病院に入院しました。

その後、智恵子は切り絵の制作を行うようになり、すばらしい紙絵の作品を遺しています。

昭和13年10月5日に、52歳で亡くなるまで、この地で入院生活を送りました。

 

高村智恵子記念詩碑

平成7年(1995年)、ゼームス坂病院があった敷地の一角に、品川郷土の会によって、高村智恵子詩碑が建立されました。

碑には光太郎直筆の「レモン哀歌」の詩が刻まれています。

 

 

 

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 高村智恵子記念詩碑

    ―レモン哀歌の碑― 

次回のお知らせ 

品川人物伝 第14回 沢庵和尚(たくあんおしょう) その1  をお送りします。

 

 

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