品川人物伝 第14回
更新日:平成23年10月6日
江戸の名僧 沢庵和尚 その1
品川歴史散歩案内 品川人物伝 第14回 平成23年9月1日~9月30日
江戸の名僧 沢庵和尚(たくあんおしょう) その1
品川人物伝第14回は、品川区北品川4丁目の東海寺大山墓地に眠る江戸時代の名僧、沢庵宗彭(たくあんそう ほう)(沢庵和尚)を紹介します。
沢庵は天正元年(1573年)、但馬国出石(たじまのくにいずし)(現在の兵庫県豊岡市)に、出石城主山名氏の家臣、秋庭綱典(あきばつなのり)の二男として生まれました。
修行の日々
10歳で出家して、初め浄土宗の唱念寺に入りましたが、14歳のとき臨済宗の宗鏡寺塔頭(すきょうじたっちゅう)の勝福寺に移り、希先西堂(きせんさいどう)の弟子となりました。
文禄3年(1594年)22歳のとき、京都大徳寺の三玄院に入り、院主の春屋宗園(しゅんおくそうえん)から宗彭という名を与えられます。
この時期、沢庵は貧困に苦しみながらも修行を続けました。
慶長6年(1601年)、大徳寺を去り堺へ向かい、大安寺にて、文人僧(ぶんじんそう)、文西洞仁(ぶんせいとうじん)について儒学や漢詩文を修め、また細川幽斎(ほそかわゆうさい)からは和歌を学びます。
文西没後の慶長8年、同じく堺の陽春庵に住む大徳寺126世住持(じゅうじ)、一凍紹滴(いっとうじょうてき)のもとで更に厳しい修行を積み、沢庵の道号(どうごう)を授かりました。
紫衣事件
慶長12年(1607)、35歳で堺南宗寺(なんしゅうじ)の住職となり、翌々年、37歳で後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の勅(ちょく)を受け大徳寺153世住持となります。
しかし、あくまで世俗から離れた生活を望む沢庵は、大寺院であった大徳寺を三日で辞して、南宗寺に戻ってしまいます。
また、豊臣秀頼をはじめ、細川忠興(ただおき)、諸大名が沢庵の禅風(ぜんふう)を慕い招こうとしますが、応じることはありませんでした。
沢庵は世俗を避け閑寂を求め各地を転々とし、元和6年(1620年)、但馬出石に戻り宗鏡寺背後の山麓に草庵を結び閑居しました。
静かな生活を送る沢庵でしたが、その運命を変える出来事、「紫衣事件(しえじけん)」が起こります。
春雨庵での生活
寛永4年(1627年)、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が幕府に諮ることなく大徳寺等の僧侶に紫衣を贈ったことに対して、幕府は法度を楯に勅許(ちょっきょ)を無効として紫衣を取り上げてしまいます。
沢庵は幕府批判の先頭に立ち、他の僧とともに幕府に対して抗弁書を提出します。
その結果、寛永6年(1629年)、沢庵は出羽国上山(現在の山形県上山市)に流罪となります。
沢庵を尊敬する上山藩主土岐頼行(ときよりゆき)は閑居を望む沢庵の意を汲んで、城外に庵(いおり)を与え庇護しました。
沢庵はこの小庵を「春雨庵(はるさめあん)」と名付け、歌や茶事(ちゃじ)をたしなむ生活を送りました。
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沢庵和尚の墓所
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