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近代の品川

品川と工業・都市化

  明治時代に入り、明治政府は中央集権体制を確立するため鉄道の建設や次々と産業を興しました。品川では、明治5年(1872)に新橋~横浜駅の鉄道開業に伴い、品川駅が建設されました。一方、近代産業ではガラス工場が明治6年(1873)品川硝子製作所として誕生し、数多くの製品や職人が生まれました。明治後期以降、目黒川沿いに工場が次々に建てられ、人口は急速に増加し、様々な産業が品川で誕生しました。一方、大井付近は、大井町駅開業と大正時代に新橋から鉄道の整備工場が移転してきたことにより、人口や都市化が急速に進み、現在の街の原型が出来上がりました。大正12年(1923)の関東大震災により、家を失った人たちの多くが荏原地区に移り、同地区の都市化が急速に進みました

金赤色被桜文ガラス花瓶の写真

金赤色被桜文ガラス花瓶


戦時下の品川

  太平洋戦争が激化するにつれて、日本本土も空襲の脅威にさらされるようになりました。昭和19年(1944)、国民学校学童(現在の小学生)を戦火から守るために学童集団疎開が始まると、旧品川区の学童は三多摩地区へ、旧荏原区の学童は静岡・富山・青森へと疎開していきました。
  品川地域は空襲で大きな被害を受け、中でも旧荏原区は広い範囲が罹災しました。

画 -「必勝祈願」落合タカ子氏

「必勝祈願」 落合タカ子氏画
今の青梅市に学童集団疎開した
品川国民学校(いまの品川学園)4年の
落合氏が疎開先で描いたものです。

空襲で焼け溶けたガラス瓶の写真

空襲で焼け溶けたガラス瓶
昭和20年(1945)4月の空襲で被災した
戸越2丁目の焼け跡から拾い集められました。