品川の大名屋敷 第4回

更新日:平成20年12月15日

出雲国 (いずものくに)(今の島根県)松江藩松平家の江戸下屋敷の一つに「大崎屋敷」もしくは「大崎苑(園)」と呼ばれた屋敷が、現在の北品川五丁目付近にありました。

松江藩松平家は徳川家康の次男結城秀康 (ゆうきひでやす)を祖とする名門の家門大名 (かもんだいみょう)で、この大崎屋敷を手に入れたのは、松江藩七代藩主、松平治郷 (はるさと)で、隠居後は号を「不昧」と称しました。

松平治郷は、六代藩主松平宗衍 (むねのぶ)の次男として宝暦元年(1751)江戸に生まれ、兄の夭折によって世継となり、明和4年(1767)、17歳のとき父の隠居によって松江藩18万6千石の藩主となりました。

治郷が家督を継いだころの松江藩の財政は、うち続く天災・飢饉のため破綻していました。

治郷は、文化3年(1806)に56歳で隠居するまでの40年余り、家老の朝日丹波を中心に藩政改革を断行し、産業振興策に努め、藩財政を建て直すとともに、美術工芸の奨励・育成に努めたのです。

治郷は、江戸時代の代表的な茶人の一人で、茶の湯に親しむようになったのは10代に入った頃で、まず遠州流 (えんしゅうりゅう)や三斎流 (さんさいりゅう)を学びました。

さらに藩主となった翌年18歳のとき石州流 (せきしゅうりゅう)を学び、やがて不昧流あるいは雲州流 (うんしゅうりゅう)とも称される大名茶を完成しました。

不昧の号は、若くして禅の道に入り、明和6年(1769)、麻布天真寺の大巓和尚 (だいてんおしょう)から「不昧」という号を授けられたことに由来します。

その後も大徳寺の無学和尚など多くの禅僧との親交を結ぶとともに、茶禅一味を追及し、生涯にわたって禅学の研鑽を続けました。

藩財政が好転すると、治郷は茶道具の蒐集を始めています。

雲州蔵帳品 (うんしゅうくらちょうしな)と称される墨跡・名器類は、治郷が生涯をかけて蒐集し愛玩したもので、現在の所有者は変わっていますが、それらの多くは国宝や重要文化財に指定されています。

さて、治郷が大崎下屋敷を手に入れた経過は複雑で、まず、享和3年(1803)に、戸越村の拝領下屋敷3,525坪を大崎の出羽(山形県)上山藩の拝領下屋敷8,437坪余との相対替(交換)に始まり、その屋敷周辺の武家地を「4者5ヵ所の相対替」など複雑な方法で囲い込みました。

その過程では、建前上はあってはならない金銭の授受も行われたのです。

このようにして松江藩松平家大崎下屋敷約2万坪は完成しました。

さらに、この大崎屋敷の普請には、文化元年から4年までに、2万3,341両もの大金を掛けたという記録が残っています。

文化3年(1806)に隠居した不昧は、大崎屋敷に住み名器蒐集とお茶三昧の余生を送りました。

また、この屋敷地には地形を生かした庭園とともに趣向を凝らした茶室をつくり、11もの茶室が散在する一大茶苑となりました。

なかでも「独楽庵 (どくらくあん)」は、千利休が宇治田原に造った茶室で、大坂にあったものを不昧が大崎屋敷に移築させたものでした。

茶道三昧の晩年を送った不昧でしたが、文政元年(1818)、68歳で大崎屋敷にて亡くなりました。

不昧亡き後、大崎屋敷の拝領部分約1万4,900坪は、ペリー来航後の諸大名による海岸警護「御固 (おかため)」の一環として嘉永6年(1854)、鳥取藩池田家の所有になり、多くの茶室は取り払われてしまいました。

次回は、品川の大名屋敷 第5回「岡山藩池田家下屋敷1」 をお送りします。

 

品川大名屋敷4
・復元された独楽庵 (出雲市出雲文化館)
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