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品川の大名屋敷 第7回

更新日:2012年11月15日

前回は、岡山藩池田家の下屋敷「大崎屋敷」内の御菜園 (おさいえん)や林からの産物についてお話しました。

今回は、産物の地域への提供、大崎屋敷に出入りしていた周辺の村の名主や、抱屋敷となった土地の、元の地主百姓の役割などについてお話しましょう。   

大崎屋敷の林からとれた木材は、地域にも提供されていました。

弘化5年(1848)正月、品川台町 (しながわだいまち)(上大崎1丁目の一部と東五反田4丁目の一部)の家主惣代らは、この地の鎮守・忍田稲荷 (おしだいなり)(現在、東五反田3丁目の袖ヶ崎神社)の祭礼に用いる幟棹 (のぼりざお)の材料として、屋敷内の杉2本の寄進を願い出ました。

忍田稲荷は3年前に、この品川台町付近一帯の火災によって全焼してしまい、それ以降の初午祭 (はつうままつり)は、幟 (のぼり)も灯 (あかり)も掲げずに行っていましたが、これでは忍びないと、大崎屋敷に寄進を願いでた結果、この願いはすぐさま聞き入れられ、3日後には、杉2本が引き渡されました。

さらに、安政4年(1857)10月には、上大崎村・下大崎村・谷山村の名主が、前年の大風で壊れた村々の鎮守、雉子宮 (きじのみや)(現在、東五反田1丁目の雉子神社)の拝殿再建のために大崎屋敷に、木材の寄進を願い出ています。

願いは叶えられ、幹周り6尺(約1.8メートル)という松の大木2本が寄進されました。

このような村々からの要請は日常的なものではなく、災害が起こったときなどに限られていたようです。

次に大崎屋敷に出入りしていた名主や、抱屋敷の元の地主百姓らの役割などについて見てみましょう。

大崎村周辺など江戸近郊の百姓地は、品川筋・目黒筋といった鷹場でしたので、いろいろな規制がありました。

特に抱屋敷内の樹木の伐採や剪定、囲いや家作などをつくるときには、逐一村役人(名主や年寄など)を介して幕府の屋敷改や鳥見役人、代官に許可を願い出なければなりませんでした。

村の名主は、屋敷と幕府の役所へ何度も足を運び、幕府の見分に立会うなど、屋敷側の便宜を図っていたのです。

いわゆる村の名主との関係は公的な御用が中心でした。

大崎屋敷内の抱屋敷地部分の、元の地主百姓とのかかわりは、抱屋敷にかけられた年貢金を大崎屋敷から直接受け取り上納していたほか、品川宿で常備している人馬の不足を補うための助郷役といった諸役も、その額に応じて屋敷側から支払われた代金によって代行していました。

また、大崎屋敷と村方 (むらかた)(村側)との間で生じたトラブルでの交渉窓口的な役割も勤めていたのです。

こうした大崎屋敷に出入りしていた名主や、元の地主百姓に対して、なかには毎年、御歳暮として金品が贈られたり、紋付袴 (もんつきはかま)を拝領した者もいました。

大崎屋敷の下掃除 (しもそうじ)権(肥料としての下肥 (しもごえ)引取り)といった特権も、えていたという記録が残っています。

以上のことから、大崎屋敷と地元村落は、様々な形でかかわりを持っていたことがわかるのではないでしょうか。

次回は、品川の大名屋敷 第8回 戸越村の丸亀藩京極家 (まるがめはんきょうごくけ)下屋敷について をお送りします。

 

品川大名屋敷7
・江戸名所図絵 雉の宮
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