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品川の大名屋敷 第9回

更新日:2012年7月30日

土佐国高知藩下屋敷-山内豊信(容堂)の隠居地-

土佐・高知藩(所領、24万2千石)が大井村に下屋敷を拝領したのは、 明暦 (めいれき)の大火以後の万治元年(1658)頃のことでした。

抱え地1,050坪を含めて1万6,891坪と広大な敷地は、今の浜川中学校を中心とした東大井三丁目18番から28番にかけてと、東大井二丁目の13番の一部および22番付近にあたります。

また、同時期に、抱え地として立会川河口左岸にあたる浜川橋際の海側の地に、荷揚げ場として屋敷地869坪を手に入れています。

この荷揚げ場は、ペリー再来航後の安政初年に砲台が設置されたため、浜川台場もしくは浜川砲台と呼ばれていました。

この東大井三丁目の広大な下屋敷は、鮫洲の別邸と呼ばれ、藩主の別荘として使われたと考えられています。

なかでも15代藩主山内豊信が隠居した屋敷として知られています。

豊信は、嘉永6年(1853)の黒船来航後、江戸の政界において頭角をあらわし、海防強化など藩政改革を実行しました。

そして、水戸藩主徳川斉昭 (なりあき)の子、一橋慶喜 (よしのぶ)と紀伊和歌山藩主の徳川慶福 (よしとみ)をめぐる将軍継嗣問題がおきると、豊信は、老中阿部正弘、松平慶永・島津斉彬 (なりあきら)らとともに慶喜を推していました。

ところが安政5年(1858)、井伊直弼が大老に就任し、彼の推す慶福を次期将軍と決め、慶喜を推した人々を弾圧し始めたのです。

いわゆる「安政の大獄」です。

この「安政の大獄」の余波をうけ、安政6年(1859)2月、豊信は、幕府に隠居を願い出て家督を豊範に譲り、容堂と号しました。

同年9月に大井村の下屋敷(鮫洲の別邸)に移り住んだのですが、同年11月には幕府から謹慎を命ぜられ、以後2年半ほど、この下屋敷に謫居 (たっきょ)させられたのです。

この間の容堂は、政界への復帰を思いめぐらしながらも詩歌や酒を楽しみ、品川海晏寺 (かいあんじ)の僧・南冥 (なんめい)が折りにふれては、訪問してくるのを迎え、清談に憂いをはらしていたといいます。

容堂の書いた詩書に雅号を「鮫洲漁史 (さめずりょうし)」と記した作品があり、作品の内容からもこの頃の容堂の心情を窺い知ることができます。

その後、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変を経て政情が変わり、文久2年(1862)4月、謹慎を解除されました。

容堂は再度、藩の実権を掌握するとともに、朝廷の権威を借りながら幕府中心の政治を目指した公武合体に尽くしますが、幕府の勢いは衰え、ついに慶応3年(1867)大政奉還を将軍に建白するに至りました。

そして、王政復古の新政府の成立・宣言によって設置された三職の一つ 議定に任じられ、明治政府の制度寮総裁などの役職を歴任しています。

明治2年の後半には箱崎(現、中央区)の別邸で悠々自適の生活を楽しんでいましたが、明治5年(1872)春、病のため、6月21日46歳の生涯を終えました。

墓所は、東大井4丁目の、下総山 (しもうさやま)と呼ばれていた場所(大井公園脇)にあり、品川区の史跡に指定されています。

次回は、品川の大名屋敷 第10回 弘前藩津軽家-突然の戸越村への屋敷替-についてをお送りします。

 

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