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品川の大名屋敷 第11回

更新日:2012年11月15日

熊本藩戸越屋敷1-数寄屋造りの御殿と広大な庭園-

肥後国(ひごのくに)熊本藩(くまもとはん)54万石の細川家は、かつて10万坪に及ぶ下屋敷を所持していました。

現在の豊町(ゆたかちょう)1,2丁目の一部、戸越(とごし)3丁目の一部、戸越4,5丁目、さらに第2京浜国道を越えた東中延(ひがしなかのぶ)一丁目の一部を含むという広大なものでした。

今回は、この熊本藩の下屋敷の入手(にゅうしゅ)経過と戸越屋敷成立までのお話をしましょう。

熊本藩主細川綱利(つなとし)の弟、利重(とししげ)が、寛文(かんぶん)2年(1662)に幕府から拝領(はいりょう)したのが始まりです。

当初2万2500坪を与えられることになっていましたが、藩主の弟で、分家し熊本新田藩(くまもとしんでんはん)を立てることになっていた利重には不釣合いな広さということで、7500坪の屋敷となりました。

しかし、利重はこの地が遠方であったため、この戸越屋敷には居住せず、寛文6年(1666)に綱利の白金屋敷(しろがねやしき)の中に、替地(かえち)をもらって交換したのです。

その後、利重は寛文9年(1669)に本所猿江村(ほんじょさるえむら)(江東区)に抱屋敷を求めて居住しました。

一方、この戸越屋敷は本家の下屋敷として使われることになるのです。

この屋敷地は、拝領地7200坪に、御抱年貢地(おかかえねんぐち)2万6000坪余りがあり、さらに周辺地を囲い込んで広大なものになっていったと考えられています。

戸越屋敷の絵図(えず)「戸越御屋敷(とごしおやしき)惣御差図(そうおさしず)」という史料によると、寛文(かんぶん)11年(1671)出来とあり、利重との交換から5年ほどで、周囲の土地を囲い込み、御殿(ごてん)や庭園を整備して10万坪もの広大な屋敷としていったことになります。

この絵図から戸越屋敷は、広大な敷地を南北にはしる馬場(ばば)で東西に二分されていて、東側部分には、表門を入ると数寄屋造(すきやづくり)の御殿群(ごてんぐん)があり、そこから眺めることのできる庭園が造られていました。

そこには泉水(せんすい)や築山(つきやま)があり、太鼓橋(たいこばし)などでつなぐ島々、池の中に張り出すように茶室(ちゃしつ)が造られていました。

現在の戸越公園と旧国文学研究資料館の池は、形こそ変わっていますが、戸越屋敷の東側部分に、いくつかあった池の一つなのです。

東側よりも広大な西側部分には、中央に大きな泉水があり、そのなかには島がいくつかあり、中央の島には観音堂(かんのんどう)がありました。

泉水の北には茶室があり、南には富士山を模した山が築かれ、さらに南の塀沿いには馬場があり、花畑(はなばたけ)や畑が作られていました。

西側の庭園に来れば散策ができ、馬にも乗れ、船遊びもできたのです。

さらに、本図には、屋敷内に植えられていた樹木の表示もあり、暖かい九州の大名らしく「ソテツ」が植えられていたことがわかります。

広大な戸越屋敷の機能は、まさに藩主の別荘であったことがうかがえます。

この戸越屋敷も延宝(えんぽう)6年(1678)10月18日、屋敷内の御茶屋から発生した火災で焼失し、その後、衰退の一途をたどることになるのです。

次回は、品川の大名屋敷 第12回 細川家戸越屋敷2、-焼失後の戸越屋敷の変遷-をお送りします。

なお、品川歴史館では、この絵図全体の写真と絵図をもとに東側部分の復元模型を展示しています。

是非ご覧ください。

  

  大名屋敷111

 

 熊本藩細川家戸越屋敷模型

「品川歴史館蔵」

 

 

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