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品川の大名屋敷 第14回

更新日:2012年12月6日

大井村の薩摩(さつま)・鹿児島藩主(かごしまはんしゅ)島津家(しまづけ)抱屋敷(かかえやしき)

鹿児島藩(通称:薩摩藩)は、鎌倉幕府の御家人(ごけにん)となり、薩摩・大隈(おおすみ)・日向(ひゅうが)の守護(しゅご)に任じられていたという古い歴史を持っています。

戦国時代には、北九州まで勢力を伸ばしましたが、豊臣秀吉に屈し、薩摩・大隈・日向3国の大名となりました。

関ヶ原の戦いに西軍として加わったものの領国(りょうごく)は安堵(あんど)され、江戸時代には77万石余りの外様(とざま)大名となります。

しかし、実質の石高(こくだか)は35万石ほどで、財政は苦しく、倹約につぐ倹約をしても文政(ぶんせい)13年(1830)には藩の借金・藩債(はんさい)は500万両という巨額に達していたといわれています。

文化6年(1809)に島津斉興(なりおき)が10代藩主となります。

しかし、2代前の8代藩主、重豪(しげひで)が引き続き藩政を後見(こうけん)していました。

斉興は、重豪(しげひで)と相談の上、文政10年(1827)から側用人(そばようにん) 調所(ずしょ)広郷(ひろさと)に財政改革にあたらせます。

調所は嘉永(かえい)元年(1848)に亡くなるまで、20数年にわたり藩財政の立て直しに邁進し、その結果、一変して富強(ふきょう)の藩となりました。

一方、斉興は、世継ぎ斉彬(なりあきら)への政権移譲をこばみ、側室お由羅(ゆら)の子久光(ひさみつ)に継がせようとして、斉彬を藩主にしようとした重臣ら40数名を処刑・遠島(えんとう)にしてしまいます。

このお家騒動を「高崎崩(たかさきくずれ)(お由羅騒動)」といいます。

嘉永4年(1851)4月、幕府は斉興に下高輪(しもたかなわ)(現在の品川駅高輪口前)の下屋敷に隠居を命じ(のち鹿児島の玉里邸(たまざとてい))、斉彬に藩主となるよう指示し、お家騒動は幕を閉じました。

さて、鹿児島藩の江戸屋敷は時代によって7~9カ所ありました。安政3年(1856)頃でみますと、まず、上屋敷(かみやしき)が幸橋(さいわいばし)御門内(ごもんない)(現在の日比谷公会堂 東側の中央区内幸町(うちさいわいちょう)一丁目付近)にあり、中屋敷は、芝新馬場(しばしんばば)(現在の港区芝3丁目付近)、抱屋敷(下屋敷)は、中屋敷の隣地や下高輪町(港区)や中渋谷村(なかしぶやむら)(渋谷区)、大井村などにありました。

大井村にあった、島津家の抱屋敷は、約2万坪余りと広大なもので、場所は現在の品川区東大井六丁目2番~13番、一部は大井四丁目にかけての範囲にあったと推定されます。

この抱屋敷は最初、万治(まんじ)2年(1658)に、当時の藩主島津光久(みつひさ)が土地18000坪余りを買い得たもので、さらに天保(てんぽう)3年(1832)に2382坪ほど買い足しています。

この抱屋敷の特徴は、立会川(たちあいがわ)を屋敷の南北にかけて通していることで、当時の絵図(えず)などからわかります。

この屋敷がいつ頃まで存続していたかは分かっていませんが、昭和7年(1932)に刊行された『大井町史(おおいちょうし)』によると、「慶応年間に至り、平林九兵衛(ひらばやしくへえ)が薩州侯(さっしゅうこう)より此(この)の地を譲り受け、これを開墾して耕地にした」とあります。

また、明治期の各種実測図からは、屋敷の区画(くかく)を読み取ることができないため、明治の早い段階で、屋敷の境界を示すものは撤去されてしまったようです。

この屋敷の西側部分に鉄道が敷設(ふせつ)され、その測量が明治3年(1870)に行われていることから、鉄道開通に向けて、周辺整備をしていったのではないかと考えられます。

次回は、品川の大名屋敷 第15回 嶋津淡路守抱屋敷(しまづあわじのかみかかえやしき)と宿場救済事業をお送りします。

 

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