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品川の大名屋敷 第19回

更新日:2019年2月13日

品川歴史散歩案内 品川の大名屋敷 第19回 21.10.1~10.31

大和国(やまとのくに)柳生藩(やぎゅうはん)柳生家の下屋敷-東海寺開山(とうかいじかいさん)、沢庵和尚(たくあんおしょう)と柳生宗矩(むねのり)

旧上大崎村の大和国(奈良県)柳生藩柳生家下屋敷(しもやしき)の場所は、西五反田三丁目3番から6番の一部にあたり、屋敷地の広さは1万2千坪余ありました。

柳生藩(1万石(いちまんごく))は、現在の奈良市柳生地区を治めた藩で、石高(こくだか)1万石程度の小藩でした。藩主の柳生家は代々将軍家の剣術指南役(けんじゅつしなんやく)を務め、そのため参勤交代を行わずに江戸に定住して将軍に仕える定府大名(じょうふだいみょう)でした。

柳生宗矩

柳生藩の初代藩主は柳生宗矩で、父柳生宗厳(むねよし)は剣術の一流派、柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の創始者として知られ、徳川家康に仕えていました。

宗矩も剣術の才(さい)によって徳川家康(いえやす)・秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)に仕え、厚遇されたのです。

宗矩は関ヶ原の戦いに従軍し、柳生荘(やぎゅうのしょう)に2,000石の所領(しょりょう)を安堵されました。

慶長(けいちょう)6年(1601)に、のちの2代将軍・徳川秀忠の剣術指南役となり、ついで3代将軍・徳川家光にも剣術指南役として仕え、新陰流を伝授しています。

寛永(かんえい)9年(1632)に、宗矩は初代の幕府総目付(そうめつけ)(大目付(おおめつけ))となり、諸大名の監視を任務としていました。

寛永13年(1636)に所領の加増があり、計1万石を受けて大名となり、大和国柳生藩が立藩(りっぱん)したのです。

その後、加増され1万2,500石になっています。

柳生宗矩は、北品川3丁目の東海寺の開山、沢庵和尚との親交が深く、寛永12年(1635)に沢庵が宗矩の別邸に一時的に身を寄せていました。

沢庵和尚

また沢庵は、寛永15年(1638)には、宗矩が父宗厳(むねよし)のために大和柳生(やまとやぎゅう)の地に創建した芳徳寺(ほうとくじ)の開山となっています。

沢庵和尚が柳生宗矩に与えた書簡集『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』は、宗矩に対して、沢庵が禅を通じて兵法(武術)の理(り)を解いて示したものとして知られ、柳生新陰流に大きな影響を与えたといわれています。

柳生宗矩の死後、柳生藩の遺領(いりょう)は、長男・柳生三厳(みつよし)(十兵衛(じゅうべえ))に8,300石、三男・柳生宗冬(むねふゆ)に4,000石、四男・柳生六丸(ろくまる)(列堂(れつどう))に200石と分けられたため、大名から旗本となっています。

三巌の死後、宗冬がその家督と遺領を引き継ぎ(4,000石は幕府に返上)、さらに寛文(かんぶん)8年(1668)1,700石を加増され、1万石を領する大名に復帰しました。

この柳生家の下屋敷は、拝領地(はいりょうち)が9,045坪で、このうち550坪は元禄(げんろく)15年(1702)に御預地(おあずかりち)となったものです。

拝領地のほかに抱地(かかえち)が3,416坪あり、合わせて1万2,461坪の屋敷でした。

柳生家がいつこの地を拝領したのか分かりませんが、万治(まんじ)年間(1658~61)には拝領地だったという記録があります。

同記録によれば抱地も元禄10年(1697)の検地(けんち)以前から柳生家の屋敷地でした。

柳生藩は宗矩以後、柳生家によって変わることなく明治にいたるまで13代にわたって治められました。

さて、19回にわたってご覧いただきました「品川の大名屋敷」は今回で終了です。

次回からは「江戸から明治の品川名所」をお送りしますので、ご期待ください。 

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