江戸から明治の品川名所 第2回

更新日:平成21年12月14日

高輪から北品川宿の名所

品川歴史散歩案内 江戸から明治の品川名所 第2回 21.12.1~12.31

今回から『江戸名所図会』に描かれた品川の名所旧跡について東海道に沿ってお話していきましょう。

八ッ山

品川宿の入口が八ッ山(やつやま)です。

『江戸名所図会』も、品川区域では高輪(たかなわ)を過ぎて品川の入口として八ッ山(谷山)の記述からはじまっています。

八ッ山は昔、大日山(だいにちざん)と呼んでいました。

その理由は、このあたりに大日如来(だいにちにょらい)の石像が立てられていたことに由来しています。

その後、北馬場(きたばんば)(現在の北品川2丁目18番付近)にあった光厳寺(こうごんじ)に収められていましたが、天保(てんぽう)の頃(1830年から44年)には石像の所在は不明になっていたと伝えています。

光厳寺は明治中頃に廃寺となっています。

歩行新宿

八ッ山から品川宿に入ったところが、歩行新宿(かちしんしゅく)です。

歩行新宿は北品川宿の北側に発展してできた町場で、享保(きょうほう)7年(1722年)に新たに品川宿に加わったところです。

『江戸名所図会』で歩行新宿の様子を描いた挿し絵に「磯の清水」と題した井戸があります。

「この井戸、清泉(せいせん)にして旱魃(かんばつ)にも涸(か)れることがなかった」とあり、清水横町(しみずよこちょう)の名称の由来となっています。

今の京浜急行北品川駅南側付近にありました。

この清水井戸の水は、自由に汲むことはできず、水屋から買い入れて使用していました。

明治末期の『風俗画報』では、歩行新宿について、北は東海道本線品川駅に接し、西側は京浜電車(京浜急行)の停留場を控えていたので、最も繁華なところと書いています。

 

磯の清水 

 

磯の清水

『江戸名所図会』より

 

 

桜の名所 御殿山

つぎに、江戸名所として品川で代表的なところが桜の名所・御殿山(ごてんやま)です。

『江戸名所図会』では、宿並(しゅくなみ)のむこうに海を望み、武士や庶民の花見の様子を大きく見開きで描いています。

その説明では、御殿山の名称は将軍の御殿があったことに由来しています。

また土地の人は太田道潅(おおたどうかん)の父、資清(すけきよ)の(他の資料では、道灌の館ともあり)館があったと伝えているところです。

御殿山は海を眺める丘山(おかやま)で、寛文(かんぶん)の頃(1661年から73年)に和州(わしゅう)(奈良県)吉野山(よしのやま)の桜を移植されたという。

弥生の花見のころの情景がもっとも壮観であると記しています。

また、寛永(かんえい)17年(1640年)9月16日の長門府中(ながとふちゅう)藩主、毛利秀元(ひでもと)が品川御殿で3代将軍徳川家光公に献茶(けんちゃ)した大茶会のことも記されています。

このとき家光公は、東海寺の沢庵和尚(たくあんおしょう)を呼び、亭主である毛利秀元の二人に歌を詠ませています。

品川の御殿は寛永12年(1635年)に建てられ、茶会や鷹狩りのほか幕府の重要な行事に利用されていました。

その御殿も元禄(げんろく)15年(1702年)の大火(たいか)で焼失し、以後再建されることはありませんでした。

明治の地誌『風俗画報』では、明治以降の御殿山の変わりようをつぎのように記しています。

御殿山は東海道線路の西側の高台です。嘉永(かえい)6年、海防のためこの土を削って品川砲台を築き、文久(ぶんきゅう)2年には外国(公使)館を設ける事になり、昔の姿を変えてしまった。

さらに明治以降は私有地となり、今や(明治43年頃)原氏の邸(やしき)や新設の家屋が連なるようになったとあります。

 

次回のお知らせ

次回は、「北品川宿の寺社」をお送りします。

 

 

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