江戸から明治の品川名所 第9回

更新日:平成22年5月27日

上大崎村・下大崎村の名所

品川歴史散歩案内 江戸から明治の品川名所 第9回 22.7.1~7.31

上大崎村・下大崎村の名所

今回の名所は上大崎村と下大崎村の名所です。

上大崎村は山手線目黒駅の周辺から東南の位置で、上大崎村に隣接する六軒茶屋町と永峯町を含めた地域です。

現在の上大崎1丁目から4丁目、東五反田5丁目の一部と西五反田1丁目から3丁目の一部にあたります。

こちらの名所からお話しましょう。

目黒道

『江戸名所図会』のなかで上大崎村の名所について、隣村の白金村(現在の港区白金から白金台の方から目黒駅への道は、目黒不動尊へ行く道筋で「目黒道」と呼ばれていました。

また「白金通り」ともいわれていました。

この道筋の六軒茶屋町(現在の上大崎2・3丁目の目黒通り沿い)には、鎌(かま)作り観音・光雲寺(こううんじ)(明治8年〔1875年〕に廃寺となる)がありました。

鎌作り観音から同じ道沿いの永峯町には誕生八幡宮(現在の誕生八幡神社)と別当寺の高福院(こうふくいん)がありました。

この3つの社寺は一緒に挿絵に描かれています。

さらに進むと行人坂(ぎょうにんざか)があり、坂のかたわらには、常念仏(じょうねんぶつ)の道場で知られた明王院(みょうおういん)がありましたが、隣接の石造五百羅漢像で知られる大円寺(だいえんじ)(目黒区)に明治になって統合されました。

増上寺子院群

『江戸名所図会』のなかの名所として記されていませんが、明治の地誌「風俗画報」東京近郊名所図会には、上大崎1丁目の増上寺下屋敷についての記載があります。

現在、増上寺子院群(ぞうじょうじしいんぐん)とよばれているところで、寛文(かんぶん)元年(1661年)麻布狸穴(あざぶまみあな)(港区)から移転してきた本願寺(ほんがんじ)・最上寺(さいじょうじ)・戒法寺(かいほうじ)・光取寺(こうしゅじ)・清岸寺(せいがんじ)・正福寺(しょうふくじ)・善長寺(ぜんちょうじ)の7ヵ寺に、高輪から移ってきた了福寺(りょうふくじ)の8ヵ寺でした。

正福寺・善長寺・了福寺は廃寺となり、正福寺跡には後に移ってきた常光寺(じょうこうじ)と、善長寺は隆崇院(りゅうそういん)と合併、また了福寺跡には宝蔵寺、昭和6年(1931年)には月窓院が移ってきて現在のような寺町となっています。

雉子の宮

江戸時代の下大崎村の範囲は、現在の五反田駅周辺にあたり、東五反田1丁目から5丁目と西五反田1丁目の一部の地域です。

下大崎村の名所として「雉子(きじ)の宮」(現在、雉子神社)が挿絵入りで紹介されています。

別当寺だった宝塔寺の元三大師堂(がんざんだいしどう)とともに描かれ、江戸名所図会の挿絵のなかでは、珍しく雪景色で冬の情景を描いたものです。

雉子の宮(雉子神社)は、江戸時代の上大崎村・下大崎村・六軒茶屋町・永峯町・谷山(ややま)村の鎮守です。

『江戸名所図会』に「雉子の宮」に伝わるお話として「慶長のころ(1596年~1614年)に、3代将軍徳川家光がこのあたりで鷹狩りをしたところ、1羽の白い雉子がこのお宮に飛び込んで、見えなくなりました。

家光はこの社に詣でたあと村民に、このお宮の名をたずねました。

村民は「山の神の祠(ほこら)(大鳥明神)」と答えたところ、これからは「雉子の宮と呼ぶように」と命じたと伝えています。

 

kijinomiya 

雉子の宮

『江戸名所図会』より

 

今まで9回にわたって『江戸名所図会』から江戸時代の品川区域の名所をお届けしてきました。

今回の上大崎村・下大崎村の名所で、「江戸から明治の品川名所」シリーズは終わります。

次回のお知らせ

新たなシリーズ「品川人物伝」をお送りします。

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