江戸時代の道 第1回

更新日:平成20年12月15日

江戸時代、品川区域にはどんな道があったのでしょうか。

東海道最初の品川宿から各地に向かう道として、池上本門寺へ向かう池上道 (いけがみみち)、目黒不動尊道 (めぐろふどうそんみち)、碑文谷仁王道 (ひもんやにおうみち)、奥沢九品仏道 (おくさわくほんぶつみち)など目的地を示す道がたくさんあります。

一方、東海道は別として、各地から品川宿に至る道を「品川道 (しながわみち)」と呼んでいました。

現在、品川区外に残る「品川道」とか「品川」へといった文字が刻まれている道標は、世田谷区、目黒区、大田区などに10数基存在しています。

品川区内では聞き慣れない「品川道」ですが、道標などの所在地からどんな目的で利用されていたのか探ってみましょう。

 

1つ目は、品川宿周辺の村々が負担していた労力などの課役 (かえき)にかかわるものです。

品川宿に参勤交代などの大きな通行があると、品川宿で提供できる人馬が不足するため、道中奉行が人馬を提供する村を指定しました。

その村を「助郷 (すけごう)」といいました。この「助郷」からの人馬が通行した道が「品川道」です。

助郷に指定された村の数は、正徳6年(1716)でみると荏原郡・豊島郡内で61ヵ村にもなり、その後も増えていきました。 

 

また、三代将軍家光の意向により、沢庵和尚 (たくあんおしょう)を開山として「東海寺」が創建されることになると、近郷の村々に夜番人足や火消人足を出すことを割り当てました。

夜番とは、東海寺建立のための材木などが盗まれないよう、番屋に詰めて監視することから始まったものです。

享保17年(1732)の時点では、この夜番人足を45ヵで負担していました。

火消人足は、東海寺周辺で火災があったときに、東海寺に駆けつけるためのものです。

この夜番人足や火消人足が、各村々から駈けつける道が「品川道」でもありました。

 

2つ目は、「品川宿」の人々を養うための生鮮食料品の供給ルートとして、近郷の村々でとれた野菜を品川に持ち込むために利用されていました。

南品川には現在でも青物横丁という駅名が残っているように、妙国寺門前には青物屋が数件あって市が立てられていました。

流通の範囲は、馬込領や六郷領まで広がり、商品運搬の道として「品川道」が利用されていました。 

 

3つ目は、物見遊山や行楽のために使われました。

春は御殿山の桜や、周辺の菜の花、秋は海晏寺の紅葉と多くの人々が集まり、たどった道も「品川道」でした。

また、大山詣でなど参詣の帰り道として品川へ向かう道も「品川道」だったのです。 

 

4つ目は、毎年5月5日の府中「大国魂神社 (おおくにたまじんしゃ)」の大祭「くらやみ祭り」に先立って行われる「汐汲 (しおく)み」もしくは「お浜降 (はまお)り」のために使われる道です。

品川沖で汲み取ってきた海水を大国魂神社に持ち帰り、大祭中この海水で禊 (みそぎ)をするという行事です。 

 

以上のような目的で利用された「品川道」ですが、ではその道筋はどうだったのでしょうか。

馬込村や碑文谷村など古い村絵図からも「品川宿」へ通じる道を「品川道」と記しています。

助郷など「品川宿」の維持や物資の流通ルートとしての「品川道」は目黒区・大田区・世田谷区・川崎市など広範囲に分布しています。

多くの人が、行楽も含め様々な目的で品川宿を目指し、品川宿までの道の利用が多かったことが「品川道」の名称から想像できるのではないでしょうか。 

 

次回は、江戸時代の道 第2回、品川道その2-府中、調布に残る品川道-をお送りします。

 

江戸時代1
・品川区指定文化財

・史跡 天保2年銘道標正面に「東品川道」と刻まれています。

 中延5-12-8

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