江戸時代の道 第4回
更新日:平成20年12月15日
品川区内には、5基の「目黒道」を示す道標が残されていますが、その中で一番古い道標は、享保21年(1736)に建てられたものです。
現在は、南品川4丁目の日本ペイント株式会社内の正門脇にありますが、元は、(ほぼ同位置ですが)東海道南品川宿から南馬場通りを経て目黒不動尊へ至る道が、碑文谷仁王尊 (ひもんやにおうそん)への碑文谷道に分かれる地点に建てられていました。
道標の銘文から、道標は地元の南品川庚申講中 (こうしんこうじゅう)の人びとによって建てられたことがわかります。右側面に「めぐろ道」、左側面に「ひ文や道」と刻まれています。
また、この近くでは、西品川3丁目の貴船神社境内や、旧居木橋村と三ッ木との境に「目黒道」を示す道標を見ることができます。
道標の存在からも、品川区内のたくさんの人々が目黒不動へ参詣や行楽目的で出かけていったことがうかがわれます。
では、江戸時代の目黒不動尊門前の賑わいや名物についてみてみましょう。
江戸時代後期、隠居の僧侶であった十方庵敬順 (じっぽうあんけいじゅん)が著した紀行文『遊歴雑記』によると、門前町は、南の方向に2町(約220メートル)、東に曲がって7~8町(約800メートル)も続き、道の両側には酒食の茶屋が軒を連ね、境内では、「目黒の餅花」という子どものおもちゃを売っていたと書かれています。
餅花は、真粉(米の粉)を黄・紅・白の3色に練って小枝を飾り、花が咲いているように作ったものです。
この他にも境内では、青・黄・紅・白の4色の切り餅を、藁 (わら)で絡 (から)げたものが名物として売られていました。
また、『江戸名所図会』には、「目黒飴」を売る桐屋という店の挿絵があります。
挿絵の説明に、目黒飴は、この地の名物としてこれを商う家が多く、参詣の人々は家へのお土産にしたとあります。
目黒不動への参詣人は常にたえることがなく、特に正月・5月・9月の28日の縁日や、12月13日には、すす払いのために開帳があり、これらの日は、前夜から参詣者が群をなしていたとあります。
目黒行人坂 (ぎょうにん)から目黒不動尊門前まで茶店や土産物屋がぎっしりと建ち並び、おおいに栄えていましたが、さらに、文化9年(1812年)に、富くじ興行が許されると、湯島・谷中とともに江戸の三富 (さんとみ)といわれ、富くじ興業の日は大勢の人がつめかけ、大変な熱気だったと伝えています。
最後に目黒不動尊門前の名物に、品川との関係が深い、筍飯 (たけのこめし)がありました。
筍は、江戸時代後期から栽培されたもので、品川の戸越村の特産品であった筍が碑文谷村に広がり、名物の筍飯にもなりました。
実際に目黒不動尊門前で筍飯が名物になったのは幕末から明治にかけてといわれています。
品川の竹林は大正時代に宅地化され、今は、目黒不動で筍飯を出す料理屋はなくなってしまいました。
目黒飴、この地の名物としてこれを商ふ家多し。
参詣の輩 (ともがら)求めて家土産 (いえづと)とす。
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