江戸時代の道 第5回

更新日:平成20年12月15日

碑文谷道 (ひもんやみち)を示す道標には、「ひもんや」という地名を刻んだものと、「にをう」とか「仁王尊 (におうそん)」と目的地を刻んだものがあります。

碑文谷道の目的地は「法華寺 (ほっけじ)」後の「円融寺 (えんゆうじ)」でした。現在、目黒区碑文谷一丁目の円融寺の地には、今から約1150年前、平安時代前期の仁寿 (にんじゅ)3年(853年)に天台宗の法服寺が建立されたといわれています。

その後、弘安6年(1283年)、日源上人によって日蓮宗に改宗され、寺の名称も「法華寺」に改められました。

室町時代の最盛期には寺域が3万坪余、坊舎が18、末寺が75ヵ寺に及んだといいます。

教義「不受不施 (ふじゅふせ)」のため、江戸幕府から改宗を命じられ、元禄11年(1698年)再び天台宗に戻り、天保5年(1834年)に寺の名称も「円融寺」に改めました。

この円融寺には、黒塗りの仁王像があり、「碑文谷の黒仁王さん」として、あらゆる願いが成就するといわれ、天明 (てんめい)7,8年(1787,8年)頃から寛政年間(1789年から1800年)にかけて、江戸庶民の信仰をあつめ、お参りする人達で大変賑わいました。

この仁王像は永禄2年(1559年)の制作で、東京都有形文化財に指定されています。

さて、この碑文谷道の道筋ですが、品川宿から円融寺へ行く道筋を道標や江戸時代の絵図などから推定しますと、次のような道筋が考えられます。

南品川宿の南馬場から西に向かい、日本ペイント(株)正門脇に、享保21年(1736年)、南品川庚申講中の人びとによって建てられた目黒道と碑文谷道の分かれ道に建てられた道標があります。

さらに直進しますと、現在、東海道線の下をくぐるガードがあり、碑文谷架道橋の銘板がついています。

さらに西に向かいますとかつては直進する道がありました。(現在はJR東日本車輌センターへの線路や横須賀線で直進できません)

そして貴船神社の南を通って平塚橋付近に至り、小山2丁目の朝日地蔵堂付近(地蔵の辻と呼んでいた)ところに着くと「左 仁王尊」「右 不動尊」と刻まれた道標があり、そこから仁王尊道の方へ行くと円融寺に着きます。

このほか歩行新宿(今の北品川1丁目)から下大崎村(東五反田2丁目付近)を通り、中原街道を越えて、徳蔵寺(西五反田3丁目)から南下して安楽寺を経由する目黒道も、中原街道を越えたところに、かつてあった道標には「めぐろ ひもんや」と標示されており、「碑文谷道」としての機能を果たしていたことがわかります。

この碑文谷道の道筋にある小山2丁目の朝日地蔵堂のところを「地蔵の辻」といいましたが、またの名を「煤団子 (すすだんご)の辻」とも呼ばれていました。

ここには「すゞ団子」という名の茶屋があり、多くの参詣客が立ち寄り、賑わっていました。

この茶店の名前の由来を伝える昔話が残っています。最後にそのお話を紹介いたしましょう。

「さる殿様が狩りにきて、お腹をすかしてこの茶屋の縁台で団子を美味しく食べていましたが、この団子に黒い蜘蛛の巣のような煤 (すす)がついているのに気づき“これはなんじゃ”、家来これを見て、えらい事になったと青くなって返答に困り恐縮していると、まことに粋な殿様で“これは煤ではない、鈴(寿々)団子じゃ、以後『すゞ団子』と命名せよといったとか。」この団子は串にささず、くず餅のようにお皿のうえに盛って出したといいます。

 

次回は、江戸時代の道 第6回 -池上道 池上本門寺への道-をお送りします。

 

江戸時代5

・品川区小山2-7-17

 朝日地蔵堂【寛政元年石造銘道標】

  右 不動尊

  左 仁王尊 道

 と標示されています・

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