江戸時代の道 第7回

更新日:平成20年12月15日

鵜ノ木光明寺道は、現在の大田区鵜の木1丁目にある「光明寺」へ向かうための道でした。

現在、光明寺道を示す道標は、品川区内に1基、大田区内に1基しか残っていません。

現存する品川区内の道標は、荏原町商店街の中ほど、中延五丁目11番の庚申堂のすぐ脇にあります。

高さ1.15メートル、駒形の平たい石で、正面に「是より右 うの木光明寺道 左池かミ道」と刻印され、左側面には「天明三 卯5月」と刻まれていることから、天明3年(1783)に建てられたものとわかります。

光明寺は、天平年間(729~749)に行基が開き、のちに空海が真言宗の寺として再興したと伝えられています。

再興された寺は広大で関東の高野山と称されていたそうですが、その後、寛喜年間(1229~32)に善恵上人が、浄土宗西山派の寺院として改宗したということです。

境内は一万坪もあり、由緒ある寺院として栄え、多くの人々が参詣に訪れていました。

光明寺には、雷留観音、腹帯地蔵、善導大師像、龍爪権現などが祀られています。

雷留観音は、新田義貞の次男、新田義興の怨念が雷火となり、人々に災いをもたらしていることに悩んでいた浄心という僧が、当寺の十一面観音に祈念したところ雷火がおさまり、以来、鵜の木村には落雷による火災はなくなったということから雷留観音と呼ばれるようになったと伝えられています。

腹帯地蔵は、別名「杵地蔵」とも呼ばれ、安産のご利益がある地蔵として、多くの人が参詣していました。

また、江戸時代から巡行仏として知られる善導大師像、疱瘡〈天然痘〉を疑神化し、疱瘡神として知られる龍爪権現、その他、出世弁天堂にある宇賀神像と白蛇弁天像は、福運財宝をもたらすとされています。

こうした庶民の生活に根ざした多様な信仰によって、多数の参詣者でにぎわっていたようです。

さて、この光明寺への道ですが、主な道筋は3つありました。

その一つ目は東海道南品川宿から大井村を通り、池上道をさらに多摩川の平間の渡し方向に進む道、二つ目は中原街道を平塚橋でわかれ、中通りを通って馬込村・上池上村・久ヶ原村を通る鵜ノ木新田道、この道は下丸子で池上道と合流して平間に至る道筋です。

三つ目は、東海道をさらに南下して六郷でわかれ多摩川沿いに北上し、新田神社から光明寺への「いかだ道」を利用する道筋などがありました。

品川区内で唯一の、中延五丁目にある光明寺道を示す道標は、二つ目の鵜ノ木新田道の道筋に建てられた道標です。

江戸時代中期、品川区内の道路交通の状態や、庶民信仰の実情を示す貴重なものとして、品川区の指定文化財となっています。

次回は、江戸時代の道 第8回 奥沢九品仏道 -浄真寺への道をお送りします。

 

江戸時代7

・天明3年銘石造道標

  中延5-11-16

  是より「右うの木光明寺道左池かミ道」と刻印されています。

お問い合わせ

庶務課 文化財係 電話:03-5742-6839(直)  FAX:03-5742-6890