江戸時代の道 第8回

更新日:平成20年12月15日

品川区内に建立された道標のなかで「奥沢九品仏道」とか「おくさハ」と刻まれているものが西大井一丁目と中延五丁目の2ヵ所にあります。

「奥沢九品仏」は、世田谷区奥沢7丁目にある、敷地面積3万6千坪(12万平方メートル)にもおよぶ浄真寺のことです。

この寺の境内一帯には、戦国時代、奥沢城が築かれていましたが、その後、廃城となり、今から330年ほど前の延宝6年(1678)に、珂碩上人により、浄土宗の浄真寺が創建されました。

境内には、身の丈1丈6尺の9体の阿弥陀如来坐像(像の高さは2m80cm)が中品堂・上品堂および下品堂と、3つの仏堂に安置されています。

そこから、一般には「九品仏」と呼ばれています。

ここで、文政10年(1827)に始まったといわれる浄真寺の「お面かぶり」の行事を紹介しましょう。

この行事は、正しくは「二十五菩薩来迎会」といい、3年に1度おこなわれています。

25人の信者が地蔵のお面と光背をつけて上品堂を浄土、本堂を現世に見立てて、お堂の間の橋を行き来します。

臨終を迎えた行者の枕元に如来が訪れて、浄土に導くという教えを劇化したものです。

さて、江戸時代の九品仏の様子を津田大浄(十方庵)という僧侶の紀行文『遊歴雑記』から探ると、門前には4,5軒の茶店があり、参詣人の荷物を預かったり、酒食をすすめたりして大変賑わっていたようです。

また、当時の年中行事としてよく知られていたものに、4月3日より12日までの10日間行われた阿弥陀経千部読誦修行がありました。

また、「虫払い」という行事は、7月16日から18日までの三日間、珂碩上人以来の什器宝物を取り出し、披露していたので、これを見るために遠くからたくさんの参詣者が集まったと書かれています。

最後に道筋ですが、残された道標からたどってみますと、品川宿からまず、池上道に入り、池上道の途中から西に入って、ニコン脇の西大井一丁目6番付近の元禄8年(1695)に建てられた道標の前にたどりつくと、道標の右面に「従是奥澤九品佛道」とあります。道標に従ってさらに西に進むと、中延五丁目12番に、天保2年(1831)に建てられた道標付近に着きます。

この道標には四方への行き先が刻まれていて西方向には「西 せんそく おくさハ道」とあります。

ここを過ぎると、中原街道に達します。

中原街道を左に、洗足池を過ぎたあたりで、大田区南千束二丁目の道標にしたがって右へ九品仏道に入り、奥沢神社(八幡社)の脇を通って九品仏に至ったと考えられます。

このほか、目黒の行人坂方向からは、目黒不動、法華寺(現、円融寺)などを通る二子道より、左に入る道筋があるほか、目黒区、世田谷区、大田区には、九品仏を示す道標が数多く現存しており、瀬田村(世田谷区)行禅寺などを巡って、周辺の村々からも多くの人々が訪れていたようです。

品川からも、遠くをものともせず、九品仏道を通り、浄真寺の宝物を見に出かけていたのでしょう。

 

次回は、江戸時代の道 第9回 稲毛道 -稲毛領への道をお送りします。

 

江戸時代8

・天保2年銘道標

  「中延5-12-8、西せんそく、おくさハ道」と刻まれている。

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