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江戸時代の道 第9回

更新日:2012年7月31日

稲毛道 (いなげみち)は、初めて聞く方が多いのではないでしょうか。

江戸時代の稲毛道は、橘樹郡 (たちばなぐん)稲毛領 (いなげりょう)へ続く道でした。

当時の稲毛領は57ヵ村で構成され、登戸の渡しより川崎のあたりまでをいい、かなり広い地域をさしていました。

概ね多摩川と鶴見川の支流矢上川 (やがみがわ)に挟まれた地域で、現在の川崎市多摩区・宮前区・高津区・中原区および横浜市港北区の北部あたりになります。(品川は橘樹郡の隣で荏原郡に属していました)

現在、品川区内で稲毛道をしめす道標は、大井一丁目24番の清護稲荷 (せいごいなり)神社境内に1基だけ残っています。

この道標は高さ123cmの角柱型で、天保9年(1838)に、池上道と稲毛道の分かれ道に建てられたものです。

この道標は元の位置より移動され稲荷神社入り口にある鳥居の左脇にあります。

道標正面には池上本門寺四七世日教上人による題目が刻まれ、右側面には、「右 稲毛道 中延マテ (まで)十八里 千束マテ (まで)廿五町」、左側面には「左 池上本門寺マテ1里」、背面には、造立年月日と造立信者15名の名が刻まれています。

池上本門寺に参詣する信者を対象に、品川宿や日本橋の法華 (ほっけ)信者が造立したことがわかります。

品川宿方向から稲毛道への主な道筋は、道標に記された道と、稲毛道の別名をもつ池上道の2つあります。

1つ目は、道標から右に立会川に沿うように馬込村を通って中原街道に達し、丸子の渡しを経て稲毛領へ至る道です。

この道は馬込村を通ることから馬込道とも呼ばれていました。

『新編武蔵風土記稿』の馬込村の記述では、「ここに稲毛道という往還あり、村内へかかること13町余り、或いはこれを品川道とも呼ぶ。品川宿より橘樹郡稲毛領への往来なる故なり、」と稲毛道と品川道のことが記されています。

もう1つの池上道からは、大井村、新井宿村、池上村、鵜ノ木村を通って平間の渡しから稲毛領へ至る道で、「稲毛道」・「平間道」あるいは「品川道」とも呼ばれていました。この2つ道筋は参詣の道なのか、また物資輸送の道なのか、その主な役割は判明していませんが、様々な目的を持って稲毛領からさらにその先の道へと向かっていったのでしょう。

これまで、江戸時代の道として品川道、目黒道、碑文谷道、池上道、鵜の木光明寺道、九品仏道と紹介してきましたが、区内の道標には、「中延道」や「千束道」を示すものがあります。

それぞれの目的地は「中延八幡宮(現、旗岡八幡神社)」であり、「千束池」と、そこにある「日蓮聖人袈裟掛 (けさが)けの松」でした。

道の名前からも、江戸時代の人々が参詣や遊興、商売や生活のためにいろいろな道を利用して、生き生きと活動していたことが伺えます。

次回は、江戸時代の道 第10回 東海道-その1 古代の道・鎌倉道-をお送りします。

 

江戸時代9
・ 天保9年銘題目供養塔

  大井1-24-10(清護稲荷神社境内)右側面に「右稲毛道 中延マテ一八町、千束マテ廿五町」と刻まれている。

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