江戸時代の道 第10回

更新日:平成20年12月15日

江戸時代、品川区内を通る最も重要な道が「東海道」でした。

この東海道という名称は古く、7世紀頃より、都から諸国に通ずる東山道や東海道など七道が建設され、駅馬 (うまや)を設けて伝馬 (てんま)の制度を整え、都と諸国を連絡する施設が整備されました。

また、古代の道路名は道を意味するとともに、行政区域の名称でもありました。

品川区域を含む武蔵国は、はじめ東山道に属していましたが、のち宝亀2年(771年)に東海道に属するようになりました。

当初の東海道は走水 (はしりみず)(横須賀市)で海をわたり安房・上総国(房総半島)に続いていました。

武蔵国が東海道に属してからの道筋は、平安時代中期の辞書『和名類聚抄』 (わみょうるいじゅうしょう)によって国府の位置、律令の施行細則『延喜式』 (えんぎしき)による駅家の地名から、次のように想定されています。

武蔵国の国府は府中の大国魂神社付近にあり、武蔵国の駅馬は店屋、小高、大井、豊島の4駅があったとされ、それぞれ現在の町田市鶴間、川崎市高津区、品川区大井に推定されていますが、豊島駅については諸説あって確定されていません。

町田市から大山厚木街道(国道246号線)を川崎市宮前区で東に方向を変えて高津区千年で中原街道に合流し、丸子橋付近で多摩川を渡り、品川区大井付近を通っていたと考えられます。

しかしながら古代の東海道とされる道路遺跡の発見は僅かで、静岡市の曲金北遺跡、平塚市の東中原E遺跡などで、それぞれ巾9メートルほどの道路が見つかっているだけです。

多摩川を渡ってからの古代の東海道の道路は、発見されていなかったのですが、平成13年、大森貝塚に近い大田区山王一丁目で中世の道路跡が見つかり、この道は古代東海道の小高駅から大井駅に至る道筋とも推測されています。

鎌倉時代になると、京都と鎌倉を結ぶ東海道が最も重要となり、室町時代まで続きました。

この東海道は、京都から下るときには、東山道(後の中山道)をとおり不破の関跡(岐阜県関ヶ原)を過ぎて江戸時代に美濃路といわれていた街道を通り、熱田から東海道に入ったとされています。

源頼朝の上洛をはじめ鎌倉将軍も多くこの道を利用していました。

鎌倉幕府の成立によって相模国の東海道の基点は鎌倉になり、道筋は海岸沿いとなって、箱根峠から大磯・茅ヶ崎・藤沢を経て鎌倉に入ったのです。

鎌倉に至る道を「鎌倉道」「鎌倉街道」といいますが、武蔵国を通る鎌倉道は、3本あり上ツ道・中ツ道・下ツ道で、それぞれ枝道があり、各地に鎌倉道が存在していました。

品川区域の鎌倉道は下ツ道で、現在の池上通りに平行してはしり池上から高輪へ至る道筋でした。

品川区内では大井五・六丁目付近の来迎院(鹿島神社)、光福寺・西光寺とつながる道が鎌倉道といわれています。

戦国時代になると、諸大名はそれぞれの領国内に伝馬の制を設け、街道には宿を設けて、一定数の馬の提供を義務づけました。

これが拡大され、整備されて江戸時代の宿駅・伝馬の制度が出来たのです。

次回は、江戸時代の道 第11回 東海道-その2 東海道の成立と品川宿-をお送りします。

 

江戸時代10

・江戸名所図会 西光寺

門前の細い道が鎌倉道ともよばれている道です

 

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