江戸時代の道 第11回

更新日:平成20年12月15日

江戸時代の東海道は、国道1号線や15号線の建設によって、その道幅が拡幅されましたが、八ッ山から鈴ヶ森までは、ほとんど当時の道幅でたどることができます。

この東海道に宿場を設け、伝馬 (てんま)の制度を整備したのは徳川家康でした。

家康は、関ヶ原の戦いに勝利した翌年、慶長6年(1601)の正月に、東海道の整備に着手しました。

東海道の各宿場に、家康は伝馬の朱印状を与え、奉行連名で伝馬の定をだしたのです。

このとき、品川宿にも、朱印状 (しゅいんじょう)と伝馬の定を書いたものが与えられたのですが、この書状は残っていません。

家康の朱印状と定の内容は、「この朱印状を持つ者だけに、所定の伝馬を、次の宿場まで無償で提供すること」というもので、その代償として品川宿の場合は5,000坪の土地の(年貢)が免除されました。

東海道の宿場創設時は、伝馬、1日36疋の提供でしたが、後に、1日に伝馬、100疋、人足100人を提供しなければならなくなり、地子 (じし)免許も1万5000坪となりました。

江戸時代初期の品川宿は、目黒川で南北に分れ北品川宿と南品川宿の2宿で構成され、宿場の役務も両宿で負担していました。

ところが江戸時代中ごろになると、北品川宿から北の方向、高輪に向かって発展し、法禅寺門前町屋や善福寺門前町屋、さらに北へ茶屋 (ちゃや)や旅籠屋 (はたごや)など町家ができ、新町 (しんまち)を形成するようになりました。

また、江戸に近いということで新町に旅人や遊興客をとられ南北品川宿を脅かすようになり、正徳 (しょうとく)年間(1711~1715))には争いにもなっていきました。

このころ品川宿の任務であった人足役(歩行役 (かちやく))のほとんどを新町が負担していたので、新町は享保7年(1722)に、道中奉行に品川宿に加わることを願い出ました。

そして許可がおり、北品川歩行新宿という名称になったのです。

この年以降の品川宿は、南・北品川宿と歩行新宿 (かちしんしゅく)と3宿で宿役を分担していくようになりました。

さて、当時の品川宿の様子を天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳 (しゅくそんたいがいちょう)」から紹介しましょう。

この記録によると「品川宿の人口は、6,890人で、この宿場の両側には旅籠屋93軒や食べ物を商う茶店がたち並び、また、いろいろな商いをする店があり、職人も多い。並木はなく、東側は海で、西側は田畑」とあります。

そして「この宿場の海辺では海苔を採って商いをし、これを品川海苔と呼び、芝海老とともに、ここの名産であった。」とあります。

さらに「浜辺から一里ほど離れたところには、諸国からの廻船懸かり場あり」と記され、品川沖には大きな船が停泊していたことがわかります。

このほか、「是より南、品川宿内」といった傍示杭 (ぼうじくい)の場所、浦高札場、魚市、青物市など細かに記録されています。

さらに品川宿から大井村にかけての桜や紅葉の名所なども書かれています。

現在、東海道から東の海岸は埋め立てが進み、海を見ることはできなくなりましたが、東海道周辺を歩くと、江戸時代の面影を神社仏閣、鯨塚など当時の歴史を語りかけるところがたくさん残っています。

一度ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。 

現在、東海道から東の海岸は埋め立てが進み、海を見ることはできなくなりましたが、東海道周辺を歩くと、江戸時代の面影を神社仏閣、鯨塚など当時の歴史を語りかけるところがたくさん残っています。

一度ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。

次回は、江戸時代の道-中原街道と沿道の村々-をお送りします。

 

江戸時代11

・東都名所 御殿山花見 品川全図の一部 歌川広重(初代)

 

お問い合わせ

庶務課 文化財係 電話:03-5742-6839(直)  FAX:03-5742-6890