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江戸時代の道 第12回

更新日:2012年7月31日

中原街道(中原道)は、江戸城の虎ノ門から相模国(今の神奈川県)平塚郊外の中原に通じる街道で、江戸時代には相州街道、または小杉道とも呼ばれ、東海道が整備されるまでは幹線道路として利用されていました。

慶長元年から13年頃(1596~1608)には小杉(川崎市)と中原(平塚市)に御殿が設けられ、将軍の巡遊や鷹狩りの休息や宿泊にも使われていました。

ところが東海道が幹線として整備されていくと、急ぎの旅や、東海道の混雑を避ける旅人に利用されるなど脇街道としての利用に変わっていきました。

一方、江戸の発展にともなって沿道の村々の産物を江戸に送るという輸送路としての役割が大きくなっていきます。

なかでも中原で醸造された「お酢」を江戸へ運ぶ輸送路になっていたため「御酢街道」とも呼ばれていました。

中原街道は武蔵野台地の末端を通っているため、高輪台から五反田、大田区沼部にかけて坂道が多く、とくに港区境の猿町坂(現、相生坂)、桐ヶ谷坂、さいかち坂、大田区の洗足坂、旧道に今も残る「沼部の大坂」(桜坂)は急な坂でした。

坂道が多いため、江戸からも、江戸へ行くにも旅人の通行や物資の輸送には大変な労力が必要でした。

では、中原街道沿いの村々の様子をみてみましょう。

中原街道は品川台町、上大崎村、下大崎村、桐ヶ谷村、戸越村、中延村の村々を通っていました。

品川台町(一時芝区に編入されたが、明治22年に大崎村に編入された町)は北品川宿の枝郷で、白金台町(現、港区)へつづく、中原街道の両側にできた細長い町で、本立寺や了真寺・宝塔寺とそれぞれの門前町屋、時の鐘でしられた寿昌寺、雉子の宮(雉子神社)などが連なった町でした。

文政のころ(1820)の上大崎村・下大崎村の家数は、それぞれ21戸、33戸で、ともに高台には備前岡山藩、陸奥仙台藩などの大名屋敷が多くありました。

水田地帯の目黒川沿いの低地から桐ヶ谷村の東部を通る中原街道は高台へ向かう坂道(桐ヶ谷坂)で、家数は60軒ほどの農村でした。

桐ヶ谷村から戸越村へ入るとなだらかな高台で、家数331軒、田圃より畑が多く、江戸から移住してきた山路治郎兵衛が孟宗竹を植えたのが始まりとされる「たけのこ」の名産地でした。

中原街道と品川用水路が交差するところに架かる橋が平塚橋。ここをすぎると家数118軒ほどの中延村にはいります。

平坦な高台が続き、戸越村とならんで竹林が多く筍の産地として知られていました。

江戸時代、品川区域を通る中原街道の道幅は、3間程(5.4メートル)でした。大正時代になって中原街道は都心と神奈川県との交通を円滑にすることを目的に幹線放射道路として道路網計画が大正10年に決定され、翌年から各地域ごとに工事や道筋変更工事がはじまりました。

品川区域のほとんどは昭和に入ってから工事に着手し、現在の荏原警察署付近の工事は昭和8年に工事が決まって着手されました。

さらに多摩川に架かる丸子橋が完成したのは、昭和10年5月のことでした。

品川区内では、西五反田六丁目から荏原二丁目にかけてと、旗の台二丁目付近にわずかに旧道の道筋が残っています。

 

次回からは、-品川の大名屋敷- をお送りします。

 

江戸時代12

・中原街道の道筋「中原街道絵図」の一部(平川家所蔵)『大田区地図集成』より

 

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