東海道品川宿のはなし 第9回

更新日:平成20年12月12日

品川・川崎間の東海道の道筋は、国道15号線、通称第一京浜国道と重なっている部分が多く、北品川の八ッ山から南大井の鈴ヶ森までの間と大田区内にある美原通りは、現在も旧道の道筋が残っています。

 

南品川宿の海晏寺門前町屋前を過ぎると、品川宿から大井村に入ります。

このあたりを鮫洲と呼んでいました。

現在の東大井三・四丁目の海岸付近は猟師町があり、幕府に新鮮な魚介類を献上した御菜肴八ヶ浦 (おさいさかなはちかうら)の一つ「御林浦」といい、海苔養殖や漁業の盛んなところでした。

 

大井村のはずれには御仕置場があり、現在も鈴ケ森刑場跡には磔や火刑などの処刑に使用されたという台石が残されています。

この手前の立会川に架けられた橋を俗に「涙橋」と呼んでいます。

これは鈴ケ森で処刑される罪人の家族が密かにここまで見送ってきて、涙で別れたからその名があると言います。

 

宿場と宿場の間にある村々には立場という馬子や人足が休息するために設けられた施設がありました。

品川と川崎間には、大井村浜川に、濁酒立場(どぶろくたてば)、東大森村には谷戸立場、雑色村に花の立場がありました。

後には旅人の休息や宿泊を提供するようになります。

しかし、幕府は宿場保護のため、公には立場茶屋での宿泊を禁じていました。

 

このほか両宿の間には、和中散という旅の常備薬を売る店が3軒あり、北蒲田村にあった店では梅樹を植え茶店も営業していました。

これが後に梅の名所と呼ばれる「梅屋敷」で和中散売薬所の跡です。

 

川崎宿へは多摩川を渡ります。

多摩川下流を六郷川といい、江戸時代の始めは橋が架けられていたのですが、貞享5年の大水で橋が流されてからは、舟での渡しになり、六郷の渡しと呼んでいました。

 

品川宿15
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