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東海道品川宿のはなし 第11回
更新日:平成20年12月12日
目黒川は、周辺に降った雨が集中する地形のため、少しの雨量でもすぐに溢れ、流域の村民は浸水や冠水などの被害にしばしば悩まされていました。
なかでも記録的な洪水は、享保13年(1728)9月2日の大洪水で、連日の大雨によって目黒川が氾濫し大きな被害が出ました。
このときの水かさは5尺程(約1.5メートル)になり、東海寺の本堂にも水が上がったと記録されています。
また寛延2年(1749)7月の大洪水では、南品川貴船明神門前付近で氾濫し、民家8棟と土蔵5棟が流されたとあります。
この他にも多くの洪水の記録が残っています。
度重なる氾濫に備えての水害対策は、護岸工事でした。
境橋(今の品川橋)より河口までは3尺から5尺(約1メートルから1.5メートル)の板を並べて杭を打った堤防がありました。
この工事は幕府の費用で行われています。
しかし、居木橋付近の中流地域は、耕地や宅地がせばめられるとの理由で、水防土手を築くことは許可されなかったのです。
この防備のために事前の策として行われたのが川浚えです。
品川三宿や流域の村むら十カ宿村は共同で川岸に生い茂る竹木や雑草を払い、時には川岸にたまっている堆積土砂を浚渫して水流を改善しようとしたのです。
氾濫の多かった目黒川は、大正から昭和のはじめにかけて川幅や川筋を替える大改修が行われました。
とくに第一京浜国道に架かる東海橋より下流は、東京湾まで直線の川筋となり、荏原神社の北側を流れていたものが南側になりましたが、品川橋よりやや下ったところから大きく曲がり北向きに流れる部分は、本流から分かれて猟師町の漁船を繋留するために残されていました。
この旧川筋部分は現在、埋め立てられて「八ツ山通り」になっています。
その後も目黒川は護岸などの改修が行われるとともに、川沿いには桜の木も植えられ、かつての桜の名所が復活しています。
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