東海道品川宿のはなし 第12回

更新日:平成20年12月12日

嘉永6年(1853)6月、ペリー率いるアメリカ東洋艦隊の浦賀来航によって、江戸幕府は長い鎖国の眠りを覚まされることになりました。

ペリー来航から退去するまでの10日間、浦賀奉行や各地の陣屋から江戸表へ注進したり、国許への連絡などのため、品川宿では宿継の早馬や飛脚がひっきりなしにつかわされたのです。

江戸市中も、旗本御家人に対して幕府は非常出陣の用意を命じたり、町奉行所では市中取り締まりを強化するなど、たちまちのうちに大混乱に陥ったのです。

 

幕府はペリー退去後すぐさま海岸の防備を強化するため、品川台場の築造を決定しました。

はじめの計画は南品川猟師町から深川洲崎にいたる海中に人工の島を第一から第十一まで11基つくり、大砲を設置するものでした。

品川台場はペリーが浦賀を去ってから2ヵ月後には着工され、主として伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が指揮をとり、朝から夜までの厳しい工事が行われました。

 

第一から第三台場は、8ヵ月後の安政元年4月に竣工し、第五・第六台場は、1月に着工して11月に竣工しました。

ところが、台場築造には経費がかかりすぎたため、第四は7割程度、第七は埋め立てのみで工事を中止し、急遽陸続きの御殿山下台場の築造にとりかかり、これを完成させましたが、第八から十一は工事に入ることはありませんでした。

 

台場を築造するために、品川宿が大きな影響を受けたのは、土砂の運搬による交通規制でした。

土砂は品川御殿山から高輪泉岳寺にかけての山を崩して、もっこに入れて海岸まで持って行き、さらに船で海中に運んでいました。

その運搬がうまくいくように品川宿では、第一に交通規制を強化し、「明六ッ時より暮六ッ時まで往来差し止め」としたのです。

これは東海道の北馬場(今の聖蹟公園付近)から高輪の泉岳寺間を午前6時から午後6時まで通行止めにし、その間の参勤交代の大名や旅人などの通行は目黒川に架かる境橋(現、品川橋)から北馬場・天王下(今の品川神社前)を通り、鳥取藩池田家大崎下屋敷門前(北品川五丁目)より二本榎通りから伊皿子・芝三田三丁目の聖坂へ出る脇道を通させることにしたのです。

 

このようにして完成した台場は、日本が開国することになったため、本来の目的に使われることはありませんでした。

現在、埋め立てや航路の安全のために取り壊され、残っているのは第三と第六、二つのみになっています。

 

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